マリウスとキンナに加担とは? わかりやすく解説

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マリウスとキンナに加担

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:48 UTC 版)

グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)」の記事における「マリウスとキンナに加担」の解説

紀元前88年ローマにおける民衆派オプティマテス門閥派)の争いは、ついに内戦エスカレートしたこの年門閥派の執政官ルキウス・コルネリウス・スッラポントスミトリダテス6世との戦い出征したが、その留守の間護民官プブリウス・スルキピウスが二つ法案成立させた。一つ同盟市戦争後にローマ市民権得た新市民」を、それまで特定のトリブス割り当てていたのを、全トリブス割り当てるもの(この処置により民衆派選挙優位になる)、もう一つスッラに代わってガイウス・マリウスミトリダテスとの戦争委ねるというものであった。これを知ったスッラは軍を率いてローマ戻り占領した。そして、反スッラ有力者12人を国家の敵と宣言したアッピアノスマリウスとスルキピウスを含む9人の名前挙げているが、残り3名の内の1人カルボであった可能性が高い(いずれにせよ1年後にはマリウス派の指導者1人となっている)。 12人の罪状は「不安をあおり、執政官に対して戦争をしかけ、奴隷解放したこと」であった。この12人を見つけた場合殺害してもよく、また捕縛し執政官ところに連行してもよい」とされた。しかし、殺害されたのはスルキピウスのみで、ほかはローマ脱出することができた。 紀元前87年スッラミトリダテスと戦うためにギリシア渡った。このときに執政官ルキウス・コルネリウス・キンナスッラへの忠誠誓約していたがこれを破り、再びスルキピウスの法案成立させた。この結果キンナ支持者ともう1人執政官グナエウス・オクタウィウス支持者の間に市街戦発生しキンナ敗れてローマ脱出した一方アフリカ属州逃れていたマリウスイタリア戻ってキンナ合流し、さらに幾つかの同盟都市の軍も加わってローマ4つの軍に包囲された。その内1つを、キンナと共に行動していたカルボ指揮していた。ローマ防衛のためにグナエウス・ポンペイウス・ストラボ呼び戻されたが、カルボストラボの間には古い関係があったようだ。しかし当事者間合意はできず、まもなくストラボ病死した(あるいは打たれ死んだ)。ローママリウス派に降伏した。 この出来事直後カルボストラボ息子18歳グナエウス・ポンペイウス(後のマグヌス)の弁護行っている。罪状は父がアスクルムで得た戦利品横領したというものであったカルボ加えてルキウス・マルキウス・ピリップス(紀元前91年の執政官)と若いクイントゥス・ホルテンシウス・ゴルタラス(紀元前69年執政官)が弁護に立ち、ポンペイウス無罪となった紀元前86年1月マリウス死去するキンナイタリア本土事実上支配者となり、紀元前86年にはルキウス・ウァレリウス・フラックスを、紀元前85年84年にはカルボ同僚執政官任命した

※この「マリウスとキンナに加担」の解説は、「グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)」の解説の一部です。
「マリウスとキンナに加担」を含む「グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)」の記事については、「グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)」の概要を参照ください。

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