マリウスとキンナに加担
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「グナエウス・パピリウス・カルボ (紀元前85年の執政官)」の記事における「マリウスとキンナに加担」の解説
紀元前88年、ローマにおける民衆派とオプティマテス(門閥派)の争いは、ついに内戦にエスカレートした。この年、門閥派の執政官ルキウス・コルネリウス・スッラはポントス王ミトリダテス6世との戦いに出征したが、その留守の間に護民官プブリウス・スルキピウスが二つの法案を成立させた。一つは同盟市戦争後にローマ市民権を得た「新市民」を、それまでは特定のトリブスに割り当てていたのを、全トリブスに割り当てるもの(この処置により民衆派が選挙で優位になる)、もう一つはスッラに代わってガイウス・マリウスにミトリダテスとの戦争を委ねるというものであった。これを知ったスッラは軍を率いてローマに戻り、占領した。そして、反スッラの有力者12人を国家の敵と宣言した。アッピアノスはマリウスとスルキピウスを含む9人の名前を挙げているが、残り3名の内の1人がカルボであった可能性が高い(いずれにせよ、1年後にはマリウス派の指導者の1人となっている)。 12人の罪状は「不安をあおり、執政官に対して戦争をしかけ、奴隷を解放したこと」であった。この12人を見つけた場合、殺害してもよく、また捕縛して執政官のところに連行してもよい」とされた。しかし、殺害されたのはスルキピウスのみで、ほかはローマを脱出することができた。 紀元前87年、スッラはミトリダテスと戦うためにギリシアへ渡った。このときに執政官ルキウス・コルネリウス・キンナはスッラへの忠誠を誓約していたがこれを破り、再びスルキピウスの法案を成立させた。この結果、キンナの支持者ともう1人の執政官グナエウス・オクタウィウスの支持者の間に市街戦が発生し、キンナは敗れてローマを脱出した、一方、アフリカ属州に逃れていたマリウスはイタリアに戻ってキンナと合流し、さらに幾つかの同盟都市の軍も加わって、ローマは4つの軍に包囲された。その内の1つを、キンナと共に行動していたカルボが指揮していた。ローマの防衛のためにグナエウス・ポンペイウス・ストラボが呼び戻されたが、カルボとストラボの間には古い関係があったようだ。しかし当事者間の合意はできず、まもなくストラボは病死した(あるいは雷に打たれて死んだ)。ローマはマリウス派に降伏した。 この出来事の直後、カルボはストラボの息子で18歳のグナエウス・ポンペイウス(後のマグヌス)の弁護を行っている。罪状は父がアスクルムで得た戦利品を横領したというものであった。カルボに加えてルキウス・マルキウス・ピリップス(紀元前91年の執政官)と若いクイントゥス・ホルテンシウス・ゴルタラス(紀元前69年執政官)が弁護に立ち、ポンペイウスは無罪となった。 紀元前86年1月、マリウスが死去する。キンナはイタリア本土の事実上の支配者となり、紀元前86年にはルキウス・ウァレリウス・フラックスを、紀元前85年と84年にはカルボを同僚執政官に任命した。
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