マリウスからカエサルへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
「ガイウス・マリウス」の記事における「マリウスからカエサルへ」の解説
ローマ入城後独裁官に就任したスッラによって民衆派は粛清されたが、スッラの死後に台頭したマルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスと手を組んだ外甥のガイウス・ユリウス・カエサルが第一回三頭政治を結成、民衆派の復活に繋がった。マリウスはユリウス氏族カエサル家の女性と結婚した事から、血統として甥となるカエサルの政治姿勢に少なからず影響を与えており、マリウス父子の功績を度々顕彰した。スッラはカエサルも粛清しようとしていたが、年若いカエサルの助命を嘆願する身内の議員達が相次いだことで断念した。その際、「あの青年の中には多くのマリウスがいる」と呟いたと伝えられている。 後に独裁権を獲得したカエサルが暗殺される騒乱の中、大マリウスの落胤を自称するアマティウス・マリウスという僭称者が民衆派の残党を率いたとの伝承が残っている。アマティウス派は閥族派と手を結んだマルクス・アントニウスによって捕えられ、カエサルの祭壇を設置するなどの行動に加え、「偽マリウス」(Pseudomarius、プセウド・マリウス)として処刑された。この一件は既にマリウスがローマにおける権威の一つとして認識されていた事を示している。
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