ポーランド内の不平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 15:55 UTC 版)
「ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)」の記事における「ポーランド内の不平」の解説
1411年2月1日のトルン条約でポーランド=リトアニアとドイツ騎士団の間で和平が結ばれるが、交渉の席でポーランドとリトアニアは自国に有利な条件を飲ませることができず、ポーランドの貴族は大きな不満を抱くこととなった。ポーランドはドブジン地方、リトアニアはジェマイティア、マゾフシェはウクラ川(ポーランド語版)の向こう側の小さな領域をそれぞれ獲得した。譲渡された都市をも含む大部分のドイツ騎士団の領域は維持され、ヴワディスワフ2世は高額とはいえない身代金と引き換えに多くのドイツ騎士団の幹部や騎士を解放した。身代金の代金の積み立ては、ドイツ騎士団の財源に大きな打撃を与えた。ポーランド貴族に不満を残した一連の戦後処理は1411年以降のヴワディスワフ2世に対する敵対勢力の増長を促し、ポーランドとリトアニアとの間で帰属を巡って争っていたポジーリャをヴィータウタスに譲渡し、ヴワディスワフ2世が2年の間ポーランドを留守にしてリトアニアに滞在したことが火に油を注いだ。 ヴワディスワフ2世は自らの危機を打開するため、1411年の秋に反対派の首領であるミコライ・トラバ(英語版)をグニェズノ大司教に昇進させ、代わりにヴィータウタスの支援者であったヴォィチェヒ・ヤストリヴィェッツをクラクフに置いて、リトアニアとの関係の強化を模索した。1413年10月2日にホロドウォ合同が調印され、リトアニア大公国の地位は「永遠かつ不可逆に我がポーランド王国と結び付けられた」ことがヴワディスワフ2世によって布告され、リトアニアのカトリック教徒の貴族にポーランドの貴族と同等の特権が与えられた。この勅令にはポーランドの貴族がリトアニアの貴族の同意無しにポーランド国王を選出すること、並びにリトアニアの貴族がポーランドの貴族の同意無しにリトアニア大公を選出することを禁ずる条項が含まれていた。
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