ポーランド共産主義政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 18:19 UTC 版)
「ヴィトルト・ピレツキ」の記事における「ポーランド共産主義政権」の解説
1945年7月、ピレツキはムルナウを去りイタリア中部、アドリア海に面する港湾都市アンコーナで、ヴワディスワフ・アンデルス将軍指揮するポーランド第2軍諜報部に配属された。この時ピレツキはアウシュヴィッツでの自身の経験についてモノグラフを書きはじめた。 1945年10月、ポーランド亡命政府とソ連の後押しするボレスワフ・ビェルト政権との関係が悪化したため、アンダルス将軍と情報部長スタニスワフ・キヤク中佐は、ポーランドに戻ってソビエト占領下における一般的な軍事および政治状況について調査、報告するようピレツキに命じた。 1945年12月、ワルシャワに到着したピレツキはまず情報網の構築に着手、アウシュヴィッツで抵抗運動に協力した者やTAPの協力者などと連絡をとった。偽名を複数使い、職業を宝石商、ワインボトルのラベル描き、倉庫建設の夜間現場監督などと偽って活動した。1946年7月にはポーランド公安省(MBP)に身元がばれ国外退去を命じられたがこれを拒否している。 1947年4月、ピレツキはソ連が1939年から1941年までの占領期にポーランドで行った残虐行為や国内軍退役兵および西部ポーランド武装軍元兵士らに対する不法逮捕や訴追(兵士らの多くは投獄された)に関する証拠を単独で収集し始めた。
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