ポーランド全土の最高権威者への野心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:33 UTC 版)
「ヘンリク4世」の記事における「ポーランド全土の最高権威者への野心」の解説
ヘンリク4世とシロンスクの親族達との関係は良好とは言えなかった。1280年には、彼は従兄のレグニツァ公ヘンリク5世とブランデンブルク辺境伯の攻撃を受け、苦戦を強いられた。平穏な状況を取り戻そうと、ヘンリク4世は翌1281年2月にヴロツワフ公国内の村ソンドヴェルで会議を開き、シロンスク諸公の相互協力を提案した。しかし、この会議にはヘンリク4世の別の目的が隠されていた。彼は出席したヘンリク5世と、その同盟者であるグウォグフ公ヘンリク3世とヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世などの諸公を捕え、彼らから政治的な譲歩を引き出したのである。 プシェミスウ2世はマウォポルスカの戦略上の重要拠点ヴィエルニ(またはルダ)を割譲し、ヘンリク4世を主君と認めて臣従の礼をとった。その後もヘンリク4世の政治的優勢を反映して、シチナヴァ公プシェムコと義弟のオポーレ公ボルコ1世が自発的に臣従の礼をとった。 しかしながら、全てのシロンスク諸公がヘンリク4世に従ったわけではなかった。ヘンリク5世の弟のルヴヴェク公ボルコ1世、ジャガン公コンラト2世、舅であるオポーレ公ヴワディスワフの4人の息子のうち3人(ビトム公カジミェシュ、チェシン公ミェシュコ1世、ラチブシュ公プシェミスワフ)はヘンリク4世の政治に反対し続け、オポーレの3兄弟の動向はかなり微妙な状態だった。1287年、ヘンリク4世は教会に子供を産まない公妃コンスタンツィアとの婚姻無効を宣言させ、彼女を実家のオポーレに帰した。彼女の兄弟のうち3人がヘンリク4世とは敵対し続けたが、オポーレ公ボルコ1世だけはヘンリク4世に忠誠を誓っていた。 1280年から1281年にかけて、かつてポーランド大公レシェク2世(黒公)にヴロツワフを攻められた報復にクラクフに攻め寄せたが、結局失敗に終わった。
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