ペンシルベニアへの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:51 UTC 版)
「オリバー・ボスビーシェル」の記事における「ペンシルベニアへの帰還」の解説
ボスビーシェルはポッツビルに戻り、最初は銀行業に入り、その後本と文具の商売を行ったが、どちらも「散々な」結果だった。共和党員として1866年にスクーカル郡の首席書記官選挙に出馬したが落選した。 戦後まもなく、北軍の退役兵による組織グランドアーミー・オブ・レパブリックが設立された。ボスビーシェルは首席書記官の選挙運動中にスクーカル郡の支部組織化を求められたが、候補者という位置づけにあったのでこれを断った。しかし翌年、グランドアーミー・オブ・レパブリックに加入し、ポッツビルで第24支部を組織化した。間もなくスクーカル郡地区指揮官となり、1869年にはペンシルベニア州の部門長に選ばれた。 1869年、ボスビーシェルはフィラデルフィア造幣所の預託金登録者として雇われ、同市に転居した。貨幣鋳造主任のA・ラウドン・スノウデンはボスビーシェルを気に入り、1872年には貨幣鋳造補に昇進させた。1876年、スノウデンが郵便局長になるために造幣局を去ると、ユリシーズ・グラント大統領がボスビーシェルを貨幣鋳造主任に昇進させた。グラントは1876年12月14日にボスビーシェルを指名し、12月26日にアメリカ合衆国上院によってその指名が確認された。貨幣学歴史家のQ・デビッド・ボワーズに拠れば、ボスビーシェルは貨幣鋳造主任である間に、造幣局の設備と時代遅れの型を使い、1873年、1875年、1876年のものを含め、稀な3ドル貨幣を鋳造した。ボスビーシェルの任期中、パターン・コイン、再鋳造、および異なる金属で打たれた貨幣が大量に、コネのある収集家やディーラーに流れた。またボスビーシェルが退職後まもなくそのような貨幣の個人的な収集品を大量に売却した。 ボスビーシェルは1885年初期まで貨幣鋳造主任を務めた。グロバー・クリーブランドの第一次政権が近づき、民主党員が造幣局の役人に指名されたので、ボスビーシェルはフィラデルフィア市会計監査役の首席書記官の職を確保した。ボスビーシェルは共和党員であり、フィラデルフィア市は民主党が抑えていたにも拘わらず雇われたのは会計監査役のロバート・デシャートと友人だったからだった。 ボスビーシェルはグランドアーミー・オブ・レパブリックとの関わりを続け、1876年にはフィラデルフィアで開催された第10回全エンキャンプメントの手配を行う委員になった。1879年、フィラデルフィア市の第2ポスト指揮官に選ばれた。ペンシルベニア州軍の第2連隊にも加入し、1878年には少佐、1880年には中佐に選出された。
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