ペレールの退場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 22:20 UTC 版)
「ソシエテ・ジェネラル」の記事における「ペレールの退場」の解説
1852年、ペレール兄弟(Frères Pereire)のクレディ・モビリエ(Crédit mobilier)を創立した。クレディ・モビリエは少額の株式・社債を大規模に発行し大衆貯蓄をプールして、産業金融と公共事業投資を国際的に展開する兼営銀行となった。これに対抗するシンジケートが1855年に組織された(Réunion Financière)。ロスチャイルド家を基軸とする同シンジケートには錚々たるメンバーがそろっていた。ケス・デパーニュグループ創業者のピレ(Pillet-Will)、パリ割引銀行のヘンチ(Édouard Hentsch)、アントウェルペンのカーン閨閥(Famille Cahen d'Anvers)、アライド・アイリッシュ銀行のエドワード(Edward Charles Blount)、商工信用銀行の創立者タラボー(Paulin Talabot)などが参加していたのである。 1863年、同シンジケートの大部分がジェネラル・クレジット(General Credit and Finance)を資本金2億5千万フランでロンドンに創立。トーマス・ブラッシー(Thomas Brassey)がリーダーシップをとり、ジェネラル・クレジットはエジプト・近東で活躍した。1864年5月、ソジェンがシンジケートを更新する形で創業(Société Générale pour Favoriser le Développment du Commerce et de l'Industrie en France SA, 資本金1億2千万フラン)。シュナイダーエレクトリックのウジェーヌ(Eugène Schneider)が社長となった。ロスチャイルド家は出資をしなかったのに、アルフォンス・ド・ロチルドを監査役に就けた。普墺戦争の翌年、短期資本の塊であったクレディ・モビリエが不動産投機に失敗し破産した。後に中国興業銀行がペレールの轍を踏むことになる。 無敵となったソジェンは、金属工業の盛んなサン=テティエンヌとクレルモン=フェランに支店を出した。普仏戦争までにアルザスにも支店を出していた(ストラスブールとミュルーズ、少し遅れてコルマール)。1871年、初の海外支店をロンドンに開設した。
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