ペリービル、ストーンズ川、チカマウガおよびチャタヌーガ
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「ジョージ・ヘンリー・トーマス」の記事における「ペリービル、ストーンズ川、チカマウガおよびチャタヌーガ」の解説
トーマスはビューエルの下に付いた。1862年の秋に南軍の将軍ブラクストン・ブラッグがケンタッキー州に侵入したとき、北軍の最高司令部はビューエルの用心深い傾向に神経を尖らせ、トーマスにオハイオ軍の指揮を提案してきたが、トーマスがこれを拒絶した。トーマスはペリービルの戦いではビューエル軍の副司令官であった。この戦闘は戦術的には引き分けたが、ブラッグのケンタッキー侵攻を止め、自発的にテネシー州に撤退させた。このときビューエルがブラッグ軍を追撃しなかったことで最高司令部は憤懣を募らせ、ウィリアム・ローズクランズ少将に指揮を交代させた。 トーマスはローズクランズの下で、新たにカンバーランド軍と改名された軍の中央軍の指揮を任され、ストーンズリバーの戦いでは退却する北軍の中央を固めて再度ブラッグ軍の勝利を阻止し、印象的な働きを残した。1863年6月22日から7月3日に掛けてのタラホーマ方面作戦では、デシャードからチャタヌーガに向けた操軍で最も重要な部分を担当し、テネシー川を渡った。9月19日のチカマウガの戦いでは、第14軍団の指揮を執り、北軍右翼が崩壊する中でブラッグ軍の猛攻を受ける絶望的な防御戦を再度守り抜いた。トーマスは突破され散り散りになった北軍兵をホースシューリッジで掻き集め、北軍が望みのなくなるまで崩壊するような重大な敗北から救った。カンバーランド軍の野戦士官で、後に大統領になったジェームズ・ガーフィールドが戦闘中にトーマスを訪れ、ローズクランズからの撤退命令を伝えた。トーマスが全軍の安全が確保されるまで守り抜くと言うと、ガーフィールドはローズクランズの所に戻って、トーマスは「岩のように立っている」と伝えた。戦闘の後で、トーマスは「チカマウガの岩」という渾名で広く知られるようになったが、これは強力な攻撃に対して重要なポイントを死守しようとした彼の決意を表現したものであった。 トーマスは第三次チャタヌーガの戦い直前にローズクランズの後を受けてカンバーランド軍の指揮を執り、1863年11月23日から25日に行われたこの戦いでは、トーマスの部隊がミッショナリーリッジの南軍前線を突破したことが際立ち、北軍の圧倒的な勝利となった。カンバーランド軍は命令を受けていたよりも前進していたので、オーチャード・ノブにいたグラント将軍はトーマスに「誰が前進を命じた?」と尋ねた。トーマスは「私は知らない、私ではない」と答えた。
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