ベトナム戦争と辺野古
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 05:29 UTC 版)
1960年代のベトナム戦争当時、特に65年から75年にかけて米軍の戦地への出撃拠点ともなっていたキャンプ・シュワブで、隣接する辺野古の町は米軍歓楽街「辺野古社交街」アップルタウンとして大いに賑わった。バーやレストランは200軒以上あったとも言われており、沖縄本島からだけではなく奄美からも多くの人が辺野古に移住した。繁栄の一方、泥沼化するベトナム戦争のさなか、米兵とのトラブルも絶えず、また沖縄の警察は憲兵隊 (MP) の許可がなければ介入することもできないため、辺野古の住民は旧集落の青年会を中心とした独自の自警団を組織し地域をまもろうとした。また、当初の条件にもかかわらず、実質的に基地への立ち入りは厳しく制限されたため、林業はその経済的な足場を失った。 ベトナム戦争後は、異常なドル高を背景とした基地による経済繁栄は見込むことができなくなった。辺野古社交街は、現在その多くが閉店しているが、街の雰囲気はベトナム戦争当時の面影を残しかつての繁栄をしのばせている。
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