ブダ攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:29 UTC 版)
平らな地形のペシュトと違い、ブダは丘に築かれた町であった。これはドイツ軍が火砲を丘に配置、さらに丘を利用して防衛陣地を築くことを可能としており、赤軍は攻撃が大幅に鈍り始めていた。主防衛陣地のゲッレールトの丘 (en) は武装親衛隊の精鋭部隊が防衛しており、いくつかの赤軍による攻撃を撃退した。その近辺でドイツ軍と赤軍は共同墓地で戦い、蓋を開けられた墓地上の戦いは数日間続いた。ドナウ川の中にあるマルギット島 (en) での戦いは特に情け容赦の無い激しいものとなった。島とブダを繋ぐマルギット橋は半壊していたとはいえブダとの行き来が可能であったため、下町に臨時に設営された飛行場の一部、または補給物資の投下拠点に使用されたからである。赤軍は島への攻撃に第25親衛狙撃兵師団を投入した(損失は後述)。 1945年2月11日、6週間に及ぶ戦いの後、猛烈な赤軍の攻撃が3箇所より行われ、ゲッレールトの丘はついに陥落した。赤軍の火砲は町全体を支配しており、すでに2キロ四方で食料不足と病気を患いつつあった枢軸軍防衛部隊の防衛線を撃破しつつあった。枢軸軍の一日の割り当て食料は部隊で屠殺された馬肉、パン150グラムとなっていたが、それでも枢軸軍防衛部隊は降伏を拒否、あらゆる通り、家で赤軍の部隊、戦車から町を防衛し続けた。この時、捕虜となったハンガリー将兵の幾人かは赤軍側に加わっていたが、彼らはブダ義勇兵連隊 (Budai Önkéntes Ezred, en) として知られることとなる。 2日間の大激戦において血が流された上でブダペスト南駅を占領した赤軍は、城の丘へ進撃した。1945年2月10日、激戦の末、ソ連海軍歩兵が城の丘に橋頭堡を確立したが、丘の半分は依然、枢軸軍が占拠していた。
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