フリースクールへ通学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 05:31 UTC 版)
前述の事件から2箇月後の1986年7月、少年の家庭内暴力から何とかしたい母親は再度、少年を不動塾に入れようと図る。一方で少年は高橋良臣が代表を務める登校拒否文化医学研究所ともカウンセリングし、当時同研究所と提携関係にあった神奈川県横浜市にあるフリースクールに通うようになった。さらに同研究所が運営していた山梨県の大須成学園のサマースクールに参加し、そこで少年は不動塾から逃れる為に同研究所が運営する横浜の寮への入寮を希望したが代表者が「少年が反抗的で協調性が欠ける」と判断し、さらに少女売春疑惑など少年が入っていた不動塾の悪い噂を聞いていたので同塾に関わる事を嫌って少年の入寮を拒否した。一方で横浜市のフリースクールは少年を拒絶せず受け入れたので少年はフリースクールに通い続けた。正月の日に少年の為に正月を祝った心許したフリースクールの所長に将来の夢を聞かれ、「アメリカの高校で勉強して漢方薬の卸問屋を引き継ぐ為にアメリカで日本の漢方薬を広める事業の仕事したい」と中学を卒業したらアメリカ留学の夢を語った。それを聞いた、フリースクールの所長は回復傾向にあると理解を示し、少年もそこを頼りに快方に向かっていった。 一方、不安から不動塾に頼っていた母親は、塾長の香川から数百万円の高額な壺などを買わされる等しており、母親は香川塾長を熱狂的に信じる親密な仲となっていた。そんな母親は突然、失踪し不動塾の塾生の家族の家にお世話になっていた。そんなある日、横浜市のフリースクールの所長の立ち会わせの下、母親の事をまだ許してはないものの、少年は母親と再会し一旦話し合った。少年は「アメリカ留学の為の費用と不動塾と縁を切って不動塾に自分を連れていかない事と、いじめられていると聞いた生き別れた幼い弟を守る事」の3つの事を母親に頼んだ。母親はアメリカ留学費用は約束したものの、不動塾の事はだんまりで何も答えなかった(前述のとおり母親は不動塾を高く崇拝していた)。そして母親と香川塾長は「少年は回復していないと」決めつけ母親は拿捕を依頼、香川塾長と「拿捕隊」の塾生達は強制連行未遂を東京都千代田区神田の実家へ繰り返し行う。 やがて拿捕隊のメンバーらしき人物がフリースクールのある横浜市周辺にも出没するようになったことから、少年は身の安全確保の為、フリースクールで知り合った友人の家に寝泊まりさせてもらったり、フリースクールの所長部屋で寝泊まりなどもさせてもらったりしながら過ごした。そして1987年4月、少年は難を逃れるため幼少の頃からよく可愛がってくれた母方の祖父を頼り、横浜市のフリースクールの支援もあって母親に所在を知らせずに神奈川県鎌倉市大船近くのアパートで、一人暮らしを始め、アメリカ留学の為にパスポートも申請し英会話教室に通い続けた。
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