フリーアナウンサー転身
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大橋巨泉が『大橋巨泉の日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)をスタートさせるにあたり小倉を起用することを決め、巨泉のスカウトに乗る形で29歳のときに東京12チャンネルを退社し、フリーアナウンサーとして大橋巨泉事務所(現:オーケープロダクション)に所属した。このとき前妻と離婚した。フリーランス転身後は仕事が入らず鳴かず飛ばずの状態が続いた。当時について小倉は「税金なんか当たり前、養育費も公共料金の支払いも滞納が続いた」「質屋と古本屋には本当にお世話になった」という状態が続き、電気・ガス・水道は止められ、電車賃が払えずアパートまで歩いて帰宅し、電車賃を工面するため開店前の古本屋を叩き起こしては本を売り現金化する日々が続いた。「前妻の父が学者で、本を出すのに金がかかるから」「子供の指の手術代に」などと理由を付けて同僚から金を借りたこともあった。時折、父親から食べ物の差し入れがアパートのドアノブに引っ掛けてあり飢えを凌いだ。また、給料の前借りが日常的であったことから「バンスの小倉」とあだ名を付けられた。 その後、古巣であるテレビ東京の『タミヤRCカーグランプリ』での軽快で個性的なナレーション(自称「小倉のお兄さん」)で小中学生からの注目を集め、さらに『小川宏ショー』のリポーター、『アイ・アイゲーム』(フジテレビ)や『世界まるごとHOWマッチ』(毎日放送)のナレーションが転機となる。『RCカーグランプリ』や『HOWマッチ』では甲高い声と早口で洒脱なナレーションで名前を知られた。当時のキャッチフレーズは “七色の声を持つナレーター” であった。 また、ラジオパーソナリティとしても頭角を現し、文化放送『とことん気になる11時』(1984年 - 1987年)、『小倉智昭の時計の針はいま何時?』(1987年 - 1991年)、『小倉智昭のニュースアタックル』、『小倉智昭の夕焼けアタックル』(1992年 - 1999年)など、平日の帯ワイド番組に長期に亘って出演した。 フリー転身後もしばらくの間は、公営競技のレース実況を手掛けており、競馬以外でも日本選手権オートレース(第10回、第13回)、第36回日本選手権競輪などで実況を担当している。
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