フォルゴア礼拝堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 14:02 UTC 版)
「ランデヴェネック」の記事における「フォルゴア礼拝堂」の解説
ランデヴェネックの周囲5km、海の水車(潮の干満を利用して稼働した)に面し、ブナ林の端に礼拝堂はあった。伝説によれば、サラウン(Salaün)の亡骸を納めるために、1358年から1360年の間に建設されたという。 サラウンは古い時代から簡素な信仰を持ってこの森で暮らしていた。サラウンの知るただ一つの言葉は『アヴェ・マリア』であり、一日中繰り返し唱えていた。彼は泉のそばにある木の空洞の中で眠り、毎日村の教会に通った。彼は村人たちにパンを恵んでもらっていた。村人たちはサラウンが善良であることを知っていた。そうして彼は泉に戻って、もらったパンを泉の水に浸し、『アヴェ・マリア』を唱えた。 1358年の11月のある日、もはや息をしていないサラウンの亡骸が見つかった。彼は寝床にしていた木のそばにある、泉の近くに埋葬された。2、3日すると、墓の上に美しいユリの花が咲き乱れた。その輝くような白い花びらの一つ一つには、金色の文字で『アヴェ・マリア』と書かれていた。人々は全ての側面から奇跡を目にした。 礼拝堂は小さな教会囲い地で囲まれた。数世紀にわたって、戦争や諍いはこの地まで及ばなかった。1593年、フランス王軍がやってきて、ランデヴェネック修道院を荒らし、この礼拝堂も同じ目にあった。 荒廃した状態であったところを、1645年にタンギ修道士が復興させた。1695年には、聖職者たちがランデヴェネック教区で礼拝を行っていた。古い記録によれば、それは日曜日と祝日に行われていた。 フランス革命時代の1792年、礼拝堂は自治体の公共施設と認識され、アルゴールとトレガルヴァンとランデヴェネックの3つの教区がミサを行っていた。その後建物は打ち捨てられ、忘れ去られた。1961年、当時のランデヴェネック首長仲介のもと、礼拝堂が修復された。礼拝が行われ、パルドン祭りは聖母被昇天の日に制定された。
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