フィナーレを「失敗」とする解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:42 UTC 版)
「交響曲第7番 (マーラー)」の記事における「フィナーレを「失敗」とする解釈」の解説
第7番は、スケルツォ楽章を中心とした対称的な5楽章構成を持ち、これは交響曲第5番と同じである。しかし、両者を比較すると、第5番は曲調や「暗→明」の図式が明快であり、これが人気曲になっている理由と考えられる。対して第7番では、「夜曲」と題された楽章が第2及び第4楽章に配置されているが、第1及び第3楽章スケルツォも同様に「夜」の雰囲気がある中、第5楽章に至って突然「昼」真っ盛りに投げ出されるような奇異な感じがつきまとっていることから、第7番に関しては、構成上問題があるとの指摘がある。 テオドール・アドルノによれば、第7番のフィナーレは軽すぎ、マーラーが意図した「歓喜」は空虚なものとなっており、「闘争を経て勝利へ」という図式が茶番と化しているとする。アドルノは、ここに「交響曲」形式の終焉を見ており、この歴史的必然において第7番を「失敗作」であるとしている。 また、第7番でマーラーは交響曲形式そのものをパロディとして用いたという説もある。伝統的交響曲の素材は第7番ではコラージュの素材であり、その音楽はメタ・ミュージック(音楽についての音楽)としての性格を持ち、さらにはポストモダンあるいは脱構築との親近性を示しているというものである。この立場からは、マーラーは第5楽章で「歓喜」を意図しておらずパロディとして書いたのであって、この曲以降、交響曲のフィナーレらしいフィナーレは書かれなくなったとする。
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