ヒルティウスの戦死とは? わかりやすく解説

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ヒルティウスの戦死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 16:08 UTC 版)

ムティナの戦い (紀元前43年)」の記事における「ヒルティウスの戦死」の解説

アントニウス陣営の外で戦闘起きている時、ヒルティウス少数別動隊率いて敵陣直接打ち破ろうという大胆な策に出た。彼はみずから第3軍団率いてアントニウス天幕目指し突入した。同じころ、市内デキムス・ブルトゥス麾下大隊再編終え、ルキウス・ポンティウス・アクィラ(カエサル暗殺者の一人)に与えてアントニウス陣営出撃させた。当初ヒルティウス試み成功するかに見えた。彼は最前線立って第3軍団の兵と共にアントニウス天幕近くまで押し進んできていた。ところが、アントニウス側の第5軍団指揮官天幕を守るべく激し反撃をはじめ、ヒルティウスらの進撃押しとどめた凄惨な白兵戦混乱の中、ヒルティウス戦死し指揮官失った第3軍団自分たちが切り取ってきた地歩捨てて退却せざるを得なくなった。しかしそこにオクタウィアヌスが自ら援軍率いてやってきた。彼は激し戦闘中に身を投じヒルティウス遺体回収することに成功したスエトニウスは、「この戦闘真っただ中で、軍団旗手重傷負った時、彼はを肩に担ぎ、しばらくそうしてそれを運んだ」。 オクタウィアヌスヒルティウス軍の残存兵を立て直したものの、彼らがここまで占領した領域守り切ることはできなかった。最終的にオクタウィアヌス軍はアントニウス陣営から撤退した市内から出撃したポンティウス・アクィラも戦闘のさなかに戦死し彼の麾下部隊はムティナに戻ったオクタウィアヌス称揚する歴史家たちが、彼の戦闘中役割ヒルティウス遺体回収時に見せた勇気誇張して伝えているため、古代文献基づいて戦闘終盤様子正確に再構築するのは難しい。他の文献では、このカエサル若き後継者実際にこのような行動をとったのか疑問視しているものもある。スエトニウスタキトゥスは、オクタウィアヌス政治的ライバルでもあるヒルティウスをみずから始末したではないかとさえほのめかしている。またポンティウス・アクィラの死についても、オクタウィアヌスを疑う歴史家もいる。 オクタウィアヌスは、プロプラエトルの権限によりヒルティウス軍団指揮権手に入れた。後に元老院指揮権デキムス・ブルトゥスに譲るよう命じたが、オクタウィアヌスはこれを拒否し麾下軍団カエサル暗殺者一人の下で戦うことを拒否するだろうと主張して自身がそれらの恒久的な指揮権握った。この結果オクタウィアヌスは8個軍団もの兵力を、ローマ国家よりも自分忠誠を誓う私兵とすることに成功したオクタウィアヌスデキムス・ブルトゥスとの協力拒否した知った後者指揮下の兵たちは、次々と脱走しオクタウィアヌスのもとに参じたデキムス・ブルトゥス立場日増しに悪くなっていき、ついに残存兵を捨ててイタリアから逃亡した。彼はカエサル暗殺時の仲間であるマルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌスがいるマケドニア属州目指したが、その途上アントニウス忠誠を誓うガリア人族長捕らえられ処刑された。

※この「ヒルティウスの戦死」の解説は、「ムティナの戦い (紀元前43年)」の解説の一部です。
「ヒルティウスの戦死」を含む「ムティナの戦い (紀元前43年)」の記事については、「ムティナの戦い (紀元前43年)」の概要を参照ください。

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