バーブルとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 01:26 UTC 版)
「サングラーム・シング」の記事における「バーブルとの戦い」の解説
1525年までにインドの情勢は目まぐるしく変わっていたが、その間にティムール朝の一族バーブルが北インドへと探り目的で遠征を行っていた。 マールワー征服後、メーワール王国の勢力はピーリヤ・カールと呼ばれるアーグラ付近の小さな川にまで達していた。それゆえ、サングラーム・シングは北インドに帝国建設を目論むバーブルという存在を脅威と感じていた。 だが、サングラーム・シングはローディー朝を打倒するため、バーブルに北インド侵攻の誘いをかけた。バーブルはこの誘いに乗り、1526年4月にパーニーパットの戦いでローディー朝を破り、イブラーヒーム・ローディーを殺害した。 だが、サングラーム・シングはバーブルがデリーとアーグラを征服したとき、動こうとしなかった。バーブルはのちに彼が事前に結ばれた協定に違反したと告発している。彼らの間にどれほどはっきりした約束が結ばれていたのかは不明である。 また、バーブルがデリーを占領したのち北インドに居座り、ムガル帝国を樹立したこともサングラーム・シングにとっては誤算であった。歴史家サティーシュ・チャンドラは、バーブルがローディー朝と戦っている間に自身の欲する領土の征服を画していたにとも、ティムールと同様にデリーを略奪してローディー朝を弱体化させたのち撤退すると期待していたとも考察している。 また、サングラーム・シングのもとにはイブラーヒーム・ローディーの弟マフムード・ローディーなど多くのアフガン人が集結していた。メーワートのハサン・ハーン・メーワーティーも味方したばかりか、ほとんどのラージプートがサングラーム・シングに味方し、軍勢を派遣した。 サングラーム・シングの名声とバヤーナーにおけるムガル帝国の出城に対する勝利は、帝国の兵を怯えさせ、その士気を喪失させた。バーブルはこの状況を打開するため、自身の大酒癖を断つために禁酒することにしたのである。彼は金銀の酒杯をすべて叩き壊したばかりか、全ての酒を地面にぶちまけるように命じた。また、兵士の士気をさらに上げるため、イスラーム教徒に対する税を廃位した。その後、バーブルは異教徒に対するジハードを宣し、配下の軍勢を集め、戦地へと向かった。 1527年3月17日、サングラーム・シングとマフムード・ローディーが率いるラージプート諸王の軍20万が、バーブルの軍とアーグラの西カーヌワーで激突した(カーヌワーの戦い)。だが、連合軍はパーニーパットの戦いと同様に火器を駆使するバーブルに勝てず、連合軍の圧倒的な戦力を覆され、多くが討ち取られた。 サングラーム・シングは命こそ助かったが重傷を負い、大軍勢は散り散りになって逃げ去った。戦いののち、バーブルは敵兵らの首を積み上げ、「聖戦の勝利者」を意味するガーズィーの称号を受けた。
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