バーブ教徒として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 04:54 UTC 版)
「ファーテメ・バラガーニー」の記事における「バーブ教徒として」の解説
イラクのカルバラーに滞在中に、彼女は自らが信じるに至った新しい信仰を説き始めた。シーア派の聖職者たちによる抗議ののち、政府は彼女はバグダードに移送した。その地で彼女はバーブ教に対する公的な発言を開始し、シーア派の聖職者との論争に従事するようになった。ここに至ってバグダードの有力者たちは知事と交渉し、ペルシア人であることを理由に、彼女の件はイランで審理されるべきだと主張した。そしてかれらは彼女と他のバーブ教徒をペルシア国境まで移送した。 カズヴィーンに戻る旅の間に、彼女はバーブの教えをケランドとケルマーンシャーで説き、ケルマーンシャーの指導的聖職者アーガー・アブドッラーヘ・ベフバハーニーとも議論を行った。彼はこの時ファーテメの父に、親戚を通じて彼女をケルマーンシャーから追い払わせるよう手紙を書いた。彼女はその後サフネ(英語版)という小さな町を訪れ、続いてハマダーンに入ったところで、ガズヴィーンに彼女を呼び戻すために派遣された彼女の兄弟と面会した。彼女はこの町でバーブに関する公的な発言を行った後、ガズヴィーンに兄弟とともに戻った。ガズヴィーンに戻ると、彼女は夫と非公式に別れ(ただしイスラーム百科事典では『離婚』したとしている)、3人の子供と引き離されることになった。これは夫の家族がバーブ教に対して否定的だったためであるとされている。 ガズヴィーン滞在中、彼女の叔父であるモッラー・モハンマド・タギー・バラガーニーが殺され、このことに関して彼女への批判が相次いだ。彼は長らく シェイフ・アフマド・アフサーイー(英語版)と対立し続けていた。ファーテメのガズヴィーン滞在中、バラガーニーはバーブとその信徒を攻撃する説教を行った。殺害者を特定する確固たる証拠は何もなく、彼女が関与しているかどうかを確かめる証拠もなかった。しかしこの出来事によって、彼女はテヘランに移送され、軟禁されることになる。
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