バルトルディの名について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:50 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「バルトルディの名について」の解説
元はフェリックスの母方のおじであるヤーコプ・ザロモン・バルトルディが、ルイーゼン広場(英語版)にあった同名の土地を相続し、そのまま姓として「バルトルディ」を名乗ったのが始まりとされている。アブラハムはユダヤの伝統に反して、フェリックスに割礼を受けさせないと決めた。フェリックスの家族は、アブラハムの代でプロテスタントのルーテル派に改宗していたのである。フェリックスらの姉弟は当初宗教色のない教育を施され、1816年にフェリックスが7歳の時にルーテル教会で洗礼を受けた。この時、フェリックスにはさらにヤーコプ・ルートヴィヒをいう名前が与えられた。アブラハムとレアが洗礼を受けたのは1822年のことで、この際1812年から使用していた「バルトルディ」を一家の姓として公式に採用することになった。これにはユダヤ教からキリスト教に改宗した事を表す意味合いがあったと言われている。アブラハムは後にフェリックスに宛てた手紙の中で、この決定にはアブラハムの父であるモーゼスの習慣との決別を示す方便だったと説明している。「ユダヤ教徒の孔子などいないのと同様に、クリスチャンのメンデルスゾーンなどもまた存在し得ないのだ」フェリックスは、メンデルスゾーン姓を名乗ることをやめさせようとした父の手前その名前を名乗ったが、彼自身は特に必要性を感じておらず、「バルトルディ」を使いたがらなかった。結局、彼はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディと二重姓を名乗っていた。また、彼はエクトル・ベルリオーズの不敬虔にショックを受ける程、敬虔なキリスト教徒であったが、文化的な背景はユダヤ的な影響を強く受けており、自分自身がユダヤ人という意識を持っていたという。姉のファニーは1829年の手紙でこう述べている。「バルトルディ(中略)これは私たち皆が嫌っている名前です」
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