バイジュ・ノヤンとローマ教皇使節とは? わかりやすく解説

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バイジュ・ノヤンとローマ教皇使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 15:06 UTC 版)

バイジュ (モンゴル部)」の記事における「バイジュ・ノヤンとローマ教皇使節」の解説

1245年ローマ教皇インノケンティウス4世の命によって派遣されパリドミニコ修道会修道士アンセルムス(またはロンバルディアのアスケリヌス)、シモンら4人の使節1247年モンゴル帝国となっていたアルメニア到着した。この時にバイジュは大アルメニアのスィスィアンに幕営しており、アンセルムスらは教皇使節として、ヨーロッパへ劫掠行わないように要求する教皇からの書簡手交したアンセルムスらはさらに教皇使節としてバイジュとの会見求めたが、アンセルムスらは教皇優越性説きモンゴル蔑視する横柄な態度示したため、応対したモンゴル将校たちは強く反発し彼らの面会拒否したモンゴル側は当時モンゴル宮廷での面接作法として、モンゴル王侯への献上品差出し3度跪拝要求したが、アンセルム使節団はこれを拒否したため、書簡返答を得るのに9週間現地留まり交渉することになった。この使節団同行して記録残したサンカタンのシモン(:en)によると、バイジュ修道士たちの言動立腹し3度使節団殺害するように命令した、という。使節団バイジュ面会することなく教皇からの書簡対す返書のみ与えられ追い返されたが、この使節団持ち帰ったバイジュからの返書によると、バイジュ返書冒頭教皇に対して使節団尊大な態度に、このように話す事を教皇命じたかあるいは彼らの独断なのかと問い質している。使節団は彼を「Bayothnoy(バヨスノイ)」の名で記している。 この応対受けて、後にルイ9世のもとを訪れたエルジギデイから派遣され使者は「かつてバコン(=バイジュ)は我々の使節を何故冷遇したのか」について聞かれ、「バコンムスリム顧問団抱えていたからである」と回答している。ただし、この使者本当にモンゴル帝国から派遣され使者であるか疑問視されており、「使者の冷週はキリスト教徒ムスリム宗教的対立起因する」という回答も当時モンゴル慣例からして事実疑わしい

※この「バイジュ・ノヤンとローマ教皇使節」の解説は、「バイジュ (モンゴル部)」の解説の一部です。
「バイジュ・ノヤンとローマ教皇使節」を含む「バイジュ (モンゴル部)」の記事については、「バイジュ (モンゴル部)」の概要を参照ください。

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