バイジュの死について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 13:41 UTC 版)
「バイジュ (モンゴル部)」の記事における「バイジュの死について」の解説
バグダードの征服が完了した後、フレグはヒジュラ暦657年ラマダーン月22日(1259年9月19日)にシリア(シャーム)遠征に出立した。この時、『集史』フレグ・ハン紀によると、シクトル・ノヤンとバイジュを右翼軍に、スンジャク・ノヤンらを左翼軍に配し、フレグ自身は中軍としていたという。これ以降、『集史』フレグ・ハン紀にはバイジュの記述が無くなり、他資料でもおおよそこの時期からバイジュの記述が途絶えている。『集史』ベスト部族誌によると、バイジュはルーム地方での戦功を誇り、「私こそがルームを服従させたのだ」と吹聴して鼻にかけていたため、フレグは彼を召喚し、ヤサの規定に従って有罪として処刑したという。 また、ベスト部族誌によれば、バイジュの処刑後、彼の財産のうち半分は没収し、バイジュ麾下の万戸隊は、皇帝モンケの勅令(ヤルリク)によって、チョルマグンの息子シレムンが支配し、バイジュの息子アダク(اداك Adāk)は千戸隊を支配する事になったという。シレムンは1270年まで存命し、アダクはそのシレムンの後任として万戸長になった事が記録されている。アダクはバグダード包囲にも参加し、続くベルケとの戦闘にも加わっており、恐らくアルグン時代まで存命し、チョルマグン以来のイラン鎮戍軍起源の万戸隊を率いていたようである。 西方で活躍した武将であるため、中国正史の『元史』には伝は立てられていない。
※この「バイジュの死について」の解説は、「バイジュ (モンゴル部)」の解説の一部です。
「バイジュの死について」を含む「バイジュ (モンゴル部)」の記事については、「バイジュ (モンゴル部)」の概要を参照ください。
- バイジュの死についてのページへのリンク