ハールレムでの画家としての活動
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「カレル・ヴァン・マンデル」の記事における「ハールレムでの画家としての活動」の解説
カレル・ヴァン・マンデルは、ハールレムの美術学校の創始者の一人であると考えられているが、当時のこの学校のことはほとんど伝わっていない。決められた授業があるような学校ではなく、おそらく互いに写生しあうような、気楽な意見交換の集まりだったと考えられる。ヴァン・マンデルがハールレムに来たときには、すでに名声ある画家として認められていた。 ヴァン・マンデルは当時のオランダ芸術に重要な影響をおよぼしたことがある。1585年にヴァン・マンデルは自身が所有していた、北方マニエリスムを代表する画家であり、プラハで神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷画家だったバルトロメウス・スプランヘルの作品を友人の芸術家ヘンドリック・ホルツィウスに見せた。これらの作品はホルツィウスにとって非常に大きな衝撃となり、すぐにホルツィウスの作風に影響を与えた。ホルツィウスはスプランヘルの作品を版画として作品に仕上げ、これらの版画はマニエリスム様式の普及に重要な役割を果たしたのである。ヴァン・マンデル、ホルツィウス、コーネリス・ファン・ハールレム (en:Cornelis van Haarlem) は「ハールレムのマニエリスト」として知られるようになり、他の都市の芸術家たちも巻き込んだ芸術運動へと展開していった。 ヴァン・マンデルは自身の家で毎晩のように若い画家とともに絵を描き、古代ギリシア・ローマ神話の研究を行った。イコノクラスムの後、伝統的なキリスト教絵画は流行から外れてしまい、古代神話がポピュラーな画題となっていた。ヴァン・マンデルがかつて行ったように、イタリアへ旅をして伝統的な宗教絵画を学ぶ画家はほとんどいなかったのである。ヴァン・マンデルの目的は、年若い画家たちに正確な絵画技術を教え込むことであり、また「芸術分野のヒエラルキー (en:Hierarchy of genres)」の信奉者だった。過去の画家たちの優れた作品の正確な技術の研究を通じてのみ、写実的な歴史絵画に隠された寓意を習得できると固く信じていたのである。 ヴァン・マンデルの絵画作品にはマニエリスム様式の古代神話絵画もあるが、肖像画やピーテル・ブリューゲルの影響を受けたと思われる風俗画もある。エルミタージュ美術館所蔵の『Kermis』に見られるように、次世代の画家たちに大きな期待を抱いていた。 ヴァン・マンデルの作品で現存している物は比較的少ない。
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