ハンク・アーロンの715号本塁打
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「1974年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ハンク・アーロンの715号本塁打」の解説
1952年に当時のボストン・ブレーブスと入団契約し、1954年にミルウォーキー・ブレーブスからメジャーデビューしたハンク・アーロンは、ここまで首位打者2回、本塁打王4回、打点王4回を獲得し、1955年以降は確実に毎年20本以上の本塁打を打ち、シーズン50本台に乗ったことは無かったが、最低でも24本、最高で47本打ってきた。前年1973年も40本を打ち、8度目の40本台に乗せて通算本塁打713本となった。1960年代に入った頃にもしベーブ・ルースの714本の本塁打記録を破る者がいたとしたらという予想で名前が挙がったのがミッキー・マントル、エディ・マシューズ、ウィリー・メイズだった。しかし1962年頃からはマントルもマシューズも下降線を辿り通算500本台に乗せるのがやっとであった。そしてメイズも60年代後半に入ると衰え始めて前年に通算660本で引退した。この時点でハンク・アーロンは714本に一番近い打者となった。堅実で派手さの無いプレースタイル、物静かな男であるが、アーロンの一番の武器はケガをしない丈夫な身体であった。打撃のみならず守備や走塁でも高いレベルにあったが、ウィリー・メイズほどの強いインパクトのある選手ではなく概して地味な選手であった。しかしマントルは後に自分たちの世代の中ではアーロンが最高の選手だったと述べている。前年秋からルースの記録を破る男として注目され、メディアの報道も過熱するとともに彼への嫌がらせや脅迫が多くなった。しかし彼は挫けなかった。この年のシンシナチでの開幕試合でついに714号を打つと、地元アトランタでの試合がある日に合わせるため監督は、アーロンを2戦目と3戦目を休ませる措置を取るとコミッショナーから出場命令が出て、3戦目は出場して本塁打は打たず?、迎えた4月8日のアトランタでの開幕戦の第2打席でドジャースのアル・ダウニング投手からレフトスタンドへ715号の本塁打を打った。テレビ実況したビン・スカリーは「何という素晴らしい瞬間でしょう」と述べた。ルースの不滅の記録を破ったことでハンク・アーロンは人種間の壁を超えた存在になった。
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