ハルジー朝による属国化と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 23:47 UTC 版)
「ヤーダヴァ朝」の記事における「ハルジー朝による属国化と滅亡」の解説
1294年にハルジー朝のアワド州長官であったアラー・ウッディーン・ハルジーはヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリを攻撃し、ラーマチャンドラにハルジー朝への貢納を約束させ、多くの戦利品を持ち帰った。この富はアラー・ウッディーンが叔父ジャラールッディーン・ハルジーを殺害した際、多くの貴族や兵士を買収するのに役立った。 やがて、ラーマチャンドラはしだいに貢納を怠るようになったので、1307年にアラー・ウッディーンは マリク・カーフールをデカンに遣わして、ヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリを落とした。降伏したラーマチャンドラは捕虜としてデリーへ連行され、アラー・ウッディーンと面会して臣従を約束すると、ハルジー朝は「ラーイ・ラーヤーン」の称号を彼に与え、王の象徴でもある金色の天蓋と多額の下賜品を贈って帰国を許した。また、グジャラートの一地区も与えられた。 この一連の出来事はヤーダヴァ朝に大きな影響を与え、ラーマチャンドラの娘の一人がアラー・ウッディーンにとつぐなど同盟者の形式はとられたが、事実上ハルジー朝支配下の属国となった。また、デーヴァギリはマリク・カーフールがのちにカーカティーヤ朝とホイサラ朝を攻めた際、ハルジー朝の拠点となった。 1311年、ラーマチャンドラが治世40年目で死ぬと、息子のシャンカラデーヴァはハルジー朝の支配に反抗する態度を取った。だが、1313年にマリク・カーフールがデカン地方に遠征し、シャンカラデーヴァを敗死させた。この結果、ラーマチャンドラの娘婿ハラパーラデーヴァが王位を継承したが、彼の帰還後に独立を宣言した。 1316年、ハルジー朝のアラー・ウッディーンが亡くなると、子のクトゥブッディーン・ムバーラク・シャーがデリーのスルターンを継ぎ、その過程でマリク・カーフールは殺害された。 1317年、ハラパーラデーヴァが反旗を翻すと、ハルジー朝はデーヴァギリを攻撃し、ヤーダヴァ朝を完全に滅ぼしてその領土を併合し、ムスリムの長官を置いた。ハラパーラデーヴァの処刑は残酷を極め、ムバーラク・シャーはその生皮を剥ぎ取って殺害したと伝えられる。 そののち、1327年にトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクはデーヴァギリを「ダウラターバード」と改称して、デリーから遷都している。
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