クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーとは? わかりやすく解説

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クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/10 13:37 UTC 版)

クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー
ハルジー朝第5代君主
クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーのコイン
在位 1316年4月14日 - 1320年

出生 1299年
死去 1320年7月
王朝 ハルジー朝
父親 アラー・ウッディーン・ハルジー
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クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーウルドゥー語: قطب الدین مبارک شاہ‎, ヒンディー語:क़ुतब उद्दीन मुबारक शाह, Qutb-ud-din Mubarak Shah, 1299年頃 - 1320年7月)は、インド北部を支配したハルジー朝の第5代君主(在位:1316年 - 1320年)。父は第3代君主アラー・ウッディーン・ハルジー

生涯

1316年1月、父アラー・ウッディーン・ハルジーが死亡すると、宰相で宦官のマリク・カーフールに上の兄二人は盲目にされて幽閉され、三男のクトゥブッディーン・ムバーラクもまた同様に幽閉され、危うく盲目にされるところであった[1]

その後、幼い末弟シハーブッディーン・ウマルが傀儡として擁立されたが、2月にマリク・カーフールは専横に反発する貴族に暗殺され、ウマルも廃された。貴族らは幽閉されていたムバーラク・シャーを擁立し、4月14日に彼が即位した[1]

ハルジー朝ではアラー・ウッディーンが強力な指導権の確立のために圧政を行なっていたため、その反動で内紛や反乱が相次いでいた。ムバーラク・シャーはこれを抑えるために大赦を布告したばかりか、父時代の統制の緩和や恩赦を連発したが、かえって王朝にさらなる混乱を招き、社会不安も増大させた[2]

とはいえ、ムバーラク・シャーは父アラー・ウッディーンのような冷酷さを見せ、1316年にヒズル・ハーン、シャーディー・ハーン、シハーブッディーン・ウマルの兄弟3人を殺害したばかりか、1317年ヤーダヴァ朝の君主ハラパーラデーヴァが反乱を起こした際、その生皮をはぎ取って殺した[3]

また、ムバーラク・シャーは父アラー・ウッディーンがマリク・カーフールを重用したように、自身もヒンドゥー教からの改宗奴隷であるホスロー・ハーンを重用し、彼を総司令官の地位に任命した[3]グジャラート出身の彼は親戚と称して、同地方の低級カーストであるパルワーリを集め、300人を宮殿に引き入れた[3]

1320年7月、ムバーラク・シャーはホスロー・ハーンに殺害され、首のないその死体は中庭に放り投げられたのだという[3]

脚注

  1. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.131
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.131-132
  3. ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.132

参考文献

  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。 

関連項目

先代
シハーブッディーン・ウマル
ハルジー朝の君主
1316年 - 1320年
次代
滅亡



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