ネルコートでの制作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 10:20 UTC 版)
「メイン・ストリートのならず者」の記事における「ネルコートでの制作」の解説
1971年3月、グループはイギリス国内のホールやクラブを回る「フェアウェル・ツアー」を行った後、莫大な税金から逃れるため、イギリスを離れフランスへ移住する。同年4月、自身たちのレーベル「ローリング・ストーンズ・レコード」を設立し、レーベルからの第1弾アルバム『スティッキー・フィンガーズ』の発表を経て、7月より新作に向けての準備が始まった。レコーディング・スタジオに選定されたのは、当時キース・リチャーズが家族と共に住居としていたヴィルフランシュ=シュル=メールにあるヴィラ「ネルコート」の地下室だった。ストーンズ所有の移動式スタジオ・ユニットをネルコートの駐車場に置き、プロデューサーのジミー・ミラー、エンジニアのグリンとアンディのジョンズ兄弟、そしてボビー・キーズやニッキー・ホプキンス等ゲスト・ミュージシャがヴィラに宿泊し、24時間いつでも録音が出来るよう準備された。さらには専属のシェフまでもが雇われた。7月10日より本格的なレコーディングが開始された。 ネルコートでのセッションはリチャーズが主導権を握ったが、作業は最悪な雰囲気の中で行われていた。ドラッグの売人や怪しい取巻きがヴィラに入り込み、グループの要であるジャガーやリチャーズ、さらにはミック・テイラーやボビー・キーズ、プロデューサーのジミー・ミラーまでもがドラッグ漬けになり、作業は著しく難航した。特にレコーディングを主導していたリチャーズが子供を寝かしつけるために席を外したり、そのついでにヘロインを打つなどして、何時間も戻って来ないことに他のメンバーやスタッフは辟易させられていた。このドラッグ問題は深刻で、当時リチャーズと事実婚関係にあったアニタ・パレンバーグが、専属シェフの14歳になる娘にヘロインを注射するという事件を起こし、後に訴訟問題になった。これに加え、ジャガーが新妻のビアンカに会う為にしばしばヴィラを抜け出すこともあり、他のメンバーをさらに苛立たせた。このような状況にチャーリー・ワッツが音をあげ、途中からヴィラに顔を出さなくなった(曲によってワッツの代わりにミラーがドラムを担当しているのはこのため)。ジャガーは本作制作中のグループの様子について「ラリッてた、って言葉が適切なんじゃないかな」と振り返っている。 ヴィラに泥棒が入り、リチャーズのギターが盗まれる事件があるなどして、セッションは一時的に中断されたが、10月には再開し、11月23日まで続けられた。
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