ニカイアの将軍とは? わかりやすく解説

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ニカイアの将軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:08 UTC 版)

アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事における「ニカイアの将軍」の解説

アレクシオス・ストラテゴポウロスの名前が年代記登場するのは1252/3年、ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス時代である。彼は分遣隊率いてオストロヴォ湖近辺進出しライバル国のエピロス専制侯国領を荒らした1254年、彼はマケドニアセレス拠点を置き、翌年メガス・プリミケリオスのコンスタンティノス・トルニケスと共にロドピ山脈西側のツェパイナ城を攻撃したが、この遠征多数犠牲者出して失敗した同時代歴史家ゲオルギオス・アクロポリテスは、対峙したブルガリア軍前もって調査することを怠った2人将軍非難している。ニカイア軍は装備や馬を「ブルガリア羊飼いや豚飼い」のもとに残して潰走した。皇帝テオドロス2世ラスカリス (在位: 1254年1258年)もこの敗北憤激し2人解任した。その上アレクシオス・ストラテゴポウロス野心家のミカエル・パレオロゴスの派閥と近い関係にあったのも災いしてアレクシオスはまもなく投獄され息子コンスタンティノス不敬罪問われ両目潰された。 テオドロス2世1258年8月死去し間もなくストラテゴポウロスは釈放されとされるテオドロス2世の幼い息子ヨハネス4世ラスカリスニカイア帝位継ぎ、ゲオルギオス・ムザロンが摂政となったが、ストラテゴポウロスが加担するミカエル・パレオロゴス派がムザロンとの抗争勝利し8月25日にミカエル・パレオロゴスが摂政地位についた同年、ストラテゴポウロスはミカエル・パレオロゴスの弟でメガス・ドメスティコスのヨハネス・パレオロゴスと共にエピロス専制侯国支配下マケドニア侵攻した1259年初頭にミカエル・パレオロゴスがミカエル8世として共同皇帝即位すると、ヨハネス・パレオロゴスはセバストクラトル昇進し、ストラテゴポウロスはそのあと継いでメガス・ドメスティコスとなった1259年、ストラテゴポウロスはペラゴニアの戦いでエピロス・シチリア・アカイア連合軍破りシチリア王マンフレーディ派遣してきたドイツ人騎士400人の部隊捕虜とした。 その後、ヨハネス・パレオロゴスはテッサリア侵攻し、ストラテゴポウロスとヨハネス・ラウル・ペトラリファスもエピロス深く侵攻した。まずピントス山脈越え包囲にあったヨアニナ迂回しエピロス首都アルタを陥れた。エピロス専制侯ミカエル2世アンゲロス・コムネノスケファロニア島逃れた。この時、歴史家ゲオルギオス・アクロポリテスら多くニカイア捕虜アルタから解放された。この戦果により、ストラテゴポウロスはカエサル昇進した。しかし翌年になると、ニカイア帝国前年成果次々と失っていった。ミカエル2世やその息子たちイタリア人傭兵連れてアルタ上陸しエピロス住民は再び彼に従うようになったナフパクトス近くのトリコルフォン峠で、ストラテゴポウロス率いニカイア軍はエピロス軍に惨敗し、ストラテゴポウロス自身も敵の捕虜となった

※この「ニカイアの将軍」の解説は、「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の解説の一部です。
「ニカイアの将軍」を含む「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事については、「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の概要を参照ください。

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