ニカイアの将軍
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「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事における「ニカイアの将軍」の解説
アレクシオス・ストラテゴポウロスの名前が年代記に登場するのは1252/3年、ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスの時代である。彼は分遣隊を率いてオストロヴォ湖近辺に進出し、ライバル国のエピロス専制侯国領を荒らした。1254年、彼はマケドニアのセレスに拠点を置き、翌年メガス・プリミケリオスのコンスタンティノス・トルニケスと共にロドピ山脈の西側のツェパイナ城を攻撃したが、この遠征は多数の犠牲者を出して失敗した。同時代の歴史家ゲオルギオス・アクロポリテスは、対峙したブルガリア軍を前もって調査することを怠った2人の将軍を非難している。ニカイア軍は装備や馬を「ブルガリアの羊飼いや豚飼い」のもとに残して潰走した。皇帝テオドロス2世ラスカリス (在位: 1254年–1258年)もこの敗北に憤激し、2人を解任した。その上、アレクシオス・ストラテゴポウロスが野心家のミカエル・パレオロゴスの派閥と近い関係にあったのも災いして、アレクシオスはまもなく投獄され、息子のコンスタンティノスは不敬罪に問われ両目を潰された。 テオドロス2世は1258年8月に死去し、間もなくストラテゴポウロスは釈放されたとされる。テオドロス2世の幼い息子ヨハネス4世ラスカリスがニカイア帝位を継ぎ、ゲオルギオス・ムザロンが摂政となったが、ストラテゴポウロスが加担するミカエル・パレオロゴス派がムザロンとの抗争に勝利し、8月25日にミカエル・パレオロゴスが摂政の地位についた。同年、ストラテゴポウロスはミカエル・パレオロゴスの弟でメガス・ドメスティコスのヨハネス・パレオロゴスと共に、エピロス専制侯国支配下のマケドニアへ侵攻した。1259年初頭にミカエル・パレオロゴスがミカエル8世として共同皇帝に即位すると、ヨハネス・パレオロゴスはセバストクラトルに昇進し、ストラテゴポウロスはそのあとを継いでメガス・ドメスティコスとなった。1259年、ストラテゴポウロスはペラゴニアの戦いでエピロス・シチリア・アカイア連合軍を破り、シチリア王マンフレーディが派遣してきたドイツ人騎士400人の部隊を捕虜とした。 その後、ヨハネス・パレオロゴスはテッサリアに侵攻し、ストラテゴポウロスとヨハネス・ラウル・ペトラリファスもエピロス領深くへ侵攻した。まずピントス山脈を越え、包囲下にあったヨアニナを迂回し、エピロスの首都アルタを陥れた。エピロス専制侯ミカエル2世アンゲロス・コムネノスはケファロニア島へ逃れた。この時、歴史家ゲオルギオス・アクロポリテスら多くのニカイア人捕虜がアルタから解放された。この戦果により、ストラテゴポウロスはカエサルに昇進した。しかし翌年になると、ニカイア帝国は前年の成果を次々と失っていった。ミカエル2世やその息子たちがイタリア人傭兵を連れてアルタに上陸し、エピロスの住民は再び彼に従うようになった。ナフパクトス近くのトリコルフォン峠で、ストラテゴポウロス率いるニカイア軍はエピロス軍に惨敗し、ストラテゴポウロス自身も敵の捕虜となった。
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