ナミビア中部開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:54 UTC 版)
「レホボス・バスター」の記事における「ナミビア中部開拓」の解説
1868年に、バスターはケープ植民地を離れ、北部の内陸部の土地を開拓する意向を発表し、翌1869年に最初の30世帯が同地を去った。彼等は現在のナミビア中部のナミブ砂漠とカラハリ砂漠の間にある高原にあたるレホボス(英語版)に定住し、牧畜によって生計を立てる様になった。その後は、1871年から1907年までドイツ礼賢会から派遣された宣教師であるヨハン・クリスチャン・フリードリヒ・ハイデマンに仕える事となった。 レホボスにおけるバスターの人口は、1872年には333名にまで達した。その後も、ケープ植民地に残っていた70世帯のうち、最終的には約60世帯がそれに追従する形でレホボスへ移住し、1876年までにその人口は800名までに増加した。これに伴い、「レホボス自由共和国」の建国を宣言するとともに、現在ではバスターの民族旗とされている、当時のドイツ国旗をモチーフとした国旗をデザインした。また、独自の憲法(アフリカーンス語: Vaderlike Wette)を制定・採用し、法としての効力が失われた21世紀の現在でも、バスターにとっての行動規範の核として受け継がれている。 1870年代に、レホボスのバスターは一貫して近隣のナマ人とヘレロによる大規模な窃盗団から度々襲撃を受け、家畜を強奪され続けた。1880年に、オーラム人の一部がヘレロに対して蜂起した事を期に、生存の為にバスターは彼等と同盟を結び、損害を被りながらも1884年頃まで抵抗を続けた。 1880年代になると、レホボスのバスター社会には、ハイデマンの手引きによって、レホボス以外に居住していた一部のバスター達が合流する様になった。
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