ドーズ法の可決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:00 UTC 版)
「インディアン居留地」の記事における「ドーズ法の可決」の解説
詳細は「ドーズ法」を参照 保留地囲い込みと同時に、議会に対する白人開拓者や農場主たちによる、インディアン達の領土の明け渡しと開拓を可能にする新法の要求は、年々強まっていた。こうしたなかで、1886年に可決されたドーズ法は、インディアン保留地内の土地を個人のものとして細分化し、不動産化していく決定的な法律となった。このドーズ法の下、部族の土地はわずかな年金や品物と交換されて(それもまともに支払われることはほとんど無かった)矮小化されていった。不動産の概念のないインディアン達は、4千平方メートル当たり50セントで売買契約させられた。(反抗的だったシッティング・ブルの部族、ハンクパパ族の「スタンディング・ロック保留地」では、同じ面積で25セントにさせられた。) 1889年までに、西部のインディアン部族の土地は、3年間で16万平方キロメートルが売り渡された。1868年のララミー砦条約で、「不可侵の土地」と約されたスー族の広大な「グレート・スー・ネイション」も、ブラックヒルズに金鉱が見つかるとたちまち蹂躙され収奪されていった。この16万平方キロメートルの没収された土地のうち、4万1600平方キロメートルは、スー族が命の糧としていた、先祖代々からの猟場だった。 売り渡されなかった土地でも、数ドルの年金で、数十年単位で、市町村クラスの土地を白人農場主が半ば強制的に借り上げるようになっていった。現在でも、保留地では地主であるインディアンが、借地人である白人の農場などで、低賃金の肉体労働に従事していることは珍しいことではない。同時に、インディアンが保留地から白人の許可なしに外へ出ることは全面禁止となった。違反者は死刑になった。 詳細は「シャイアン族のリトル・ウルフとダル・ナイフの逃亡」を参照 こうした制限は、19世紀末まで続いた。 「ドーズ法」を立案した、マサチューセッツ州選出の上院議員ヘンリー・ドーズの意図は、インディアン1世帯に対して、65ヘクタールの土地を農地として「与え」、「余った」保留地の土地を白人に売却させることで、その代金の一部をインディアンに還元させる、というものであった。この根本理念は「保留地の解消」であり、ここに「部族の主権」という発想は毛頭ない。しかも、ドーズ本人はこれを「人道主義に基づく、インディアン教化の最上の方法」であるとしていた。
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