テンシュテット時代(1983年 - 1987年)
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「ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団」の記事における「テンシュテット時代(1983年 - 1987年)」の解説
東ドイツから西ドイツに亡命し、キールを本拠に活動を始めたばかりだった指揮者クラウス・テンシュテットがロンドン・フィルとマーラーの交響曲第1番を録音したのは1977年のことだった。 EMIから発売されたこの録音を聴いたカラヤンがその演奏を激賞し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台へ招いたというエピソードがあるが、テンシュテットの能力と才能に驚いたのはロンドン・フィルも同じだった。彼らの距離は次第に縮まり、1983年には首席指揮者に招かれる。 それまでの楽団の伝統にはなかったマーラーの音楽という新風を吹き込み、次々にスタジオ録音が行われ、『大地の歌』を含む交響曲全集やオーケストラ伴奏つき歌曲が録音され、次々に発売された。マーラーの音楽を完全に理解したテンシュテットの解釈がロンドン・フィルのもとで徹底され、比類のない完成度となったこのマーラー全集は、日本でも大評判になり、改めてこのコンビの蜜月ぶりを内外に示した。ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』、第6番『田園』、ブラームスの交響曲第1番、ワーグナー管弦楽曲集、リヒャルト・シュトラウスの交響詩などが録音されたが、そのいずれも高い完成度を誇っている。 1985年、アメリカに演奏旅行中だったテンシュテットは、身体の不調を訴え精密検査を受けたところ、喉頭がんにかかっていることがわかり、治療を続けるが、1987年、体調不良のため首席指揮者の任を降りることを発表する。楽団はテンシュテットに「桂冠指揮者」のポストを贈り、労に報いた。 テンシュテットはその後も闘病生活を続け、体調が良いときにはロンドン・フィルやベルリン・フィルにも客演した。1988年の日本公演では来日して指揮できるかが危ぶまれたが、無事指揮台に立ち、マーラー、そしてワーグナーの素晴らしい演奏を日本の音楽ファンに聴かせた。 1993年にマーラーの交響曲第7番『夜の歌』を指揮したのを最後に、テンシュテットはロンドン・フィルの指揮台に立つことはなかった。1998年にテンシュテットが亡くなるまで、ファンも楽団員もテンシュテットがロンドン・フィルの指揮台に帰ってくることを望んでいたが、その願いはかなわなかった。
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