テル・モンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 15:39 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動テル・モンド
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ヘブライ語転写表記 | |
- ISO 259 | Tel Mond |
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座標: 北緯32度15分16秒 東経34度55分7秒 / 北緯32.25444度 東経34.91861度座標: 北緯32度15分16秒 東経34度55分7秒 / 北緯32.25444度 東経34.91861度 | |
国 | ![]() |
地区 | 中部地区 |
設立 | 1929年 |
行政 | |
- 種別 | 地方議会 |
- 首長 | Att. Shmuel Sisso |
面積 | |
- 計 | 8,000ドゥナム (8km2 / 3sq mi) |
人口(2016年)[1] | |
- 計 | 12,212 |
ウェブサイト | tel-mond.muni.il |
テル・モンド(Tel Mond、ヘブライ語: תֵּל מוֹנְד)は、イスラエルのシャロン平野でネタニヤの東方、クファル・サバの北方に位置する町(地方評議会)。2016年時点の人口は、12,212人であった[1]。
歴史
テル・モンドは、1929年に初代メルチェット男爵アルフレッド・モンドによって創建された。メルチェット卿は、イギリスの実業家で、閣僚経験もあり、イギリス・シオニスト財団 (the British Zionist Foundation) の会長でもあった。彼が代表であったイスラエル植民会社 (The Israel Plantations Company) は、この地方の土地を購入し、ユダヤ人労働者たちに雇用機会を提供するため、柑橘類の果樹園を拓いた[2]。1933年には、農民たちのグループがこの会社から土地を購入し、モシャブ・テル・モンドを開設した。1936年には、別のグループが、メルチェット卿に従って妻とともにテル・モンドに入植したイスラエル・シーフに因んで名付けられたモシャブ・クファル・ジフ (Moshav Kfar Ziv) を開設した。1943年、イエメンからの新たな移民たちによって、シェチュナット。ヤアコフ (Shechunat Ya'akov) が開設された。イスラエル建国後、1950年代には、主にイエメンから流入した多数の移民たちを受け入れるために、ネベ・オベド (Neve Oved) とハダル・ハイム (Hadar Hayim) が建設された。1954年、これらのコミュニティすべてを合併してテル・モンド地方評議会が設けられた[2]。周辺に位置するモシャブである、クファル・ヘス、へルート、エイン・ベレドは、いずれもテル・モンド出身の開拓者達によって開かれたものである[3]。
数十年もの間に、テル・モンドは小さな町から自活できる小規模な都市にまで成長し、この地方にある他のコミュニティに様々なサービスを提供するまで成長した。この成長は急速に進んでおり、2030年には、人口が25,000人を超えるものと予測されている[4]。
2013年6月、テル・モンドの現代正統派ユダヤ教コミュニティである「Kehillat Mevaser Zion[5]」が、新たに建設したシナゴーグの開所式をおこなった際には、経済大臣ナフタリ・ベネットが出席した。
2017年6月、内務省は、弁護士であるシュミュエル・シソ (Att. Shmuel Siso) をテルモンドの首長 (Mayor of Tel Mond) に任命した。
ランドマーク
メルチェット卿の家は、博物館になっており、テル・モンドの歴史を記録している[3] 博物館の外側には、バチヤ・リシャンスキー (Batya Lishansky) が造形したメルチェット卿の像が建てられている[3]。
著名な住民
姉妹提携
脚注
- ^ a b “List of localities, in Alphabetical order”. Israel Central Bureau of Statistics. 2017年9月26日閲覧。
- ^ a b “Tel Mond (Israel)”. CRW Flags. 2014年1月24日閲覧。
- ^ a b c A day in the country - Haaretz - Israel News[リンク切れ]
- ^ “Part 2 - Central Israel's Fastest Growing Communities”. Haaretz Daily Newspaper Ltd.. 2020年4月14日閲覧。
- ^ “Mevaser Zion Community/קהילת מבשר ציון”. Kehillat Mevaser Zion. 2020年4月14日閲覧。
- ^ “Tel Mond, Israel”. Sarasota Sister Cities Association. 2014年1月24日閲覧。
外部リンク
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地図を見る |
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デンデルモンデ
(テルモンド から転送)
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デンデルモンデ / テルモンド Dendermonde / Termonde |
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市庁舎と鐘楼 |
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位置 | |||||
![]() オースト=フランデレン州の位置 |
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![]() デンデルモンデの位置 |
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座標 : 北緯51度02分00秒 東経04度06分00秒 / 北緯51.03333度 東経4.10000度 | |||||
行政 | |||||
国 | ![]() |
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地域 | ![]() |
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州 | ![]() |
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行政区 | デンデルモンデ行政区 | ||||
市 | デンデルモンデ / テルモンド | ||||
市長 | ピート・ビュイセー (CD&V/N-VA) |
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地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 55.67 km2 (21.5 mi2) | ||||
人口 | |||||
人口 | (2010年1月1日現在) | ||||
市域 | 4万4095人 | ||||
人口密度 | 792.1人/km2(2051.5人/mi2) | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) | ||||
夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) | ||||
郵便番号 | 9200 | ||||
市外局番 | 052 | ||||
公式ウェブサイト : www.dendermonde.be/ |
デンデルモンデ(オランダ語: Dendermonde [ˌdɛndərˈmɔndə])は、ベルギーのオースト=フランデレン州に位置する都市、ないしそれを中核とする基礎自治体。後者はデンデルモンデ市とアッペルス (Appels) 、バースロデ (Baasrode) 、フレムベルヘン (Grembergen) 、メスペラーレ (Mespelare) 、アウデヘム (Oudegem) 、スホーナールデ (Schoonaarde) 、シント=ヒリス=ベイ=デンデルモンデ (Sint-Gillis-bij-Dendermonde) の各町から構成される。デンデル川とスヘルデ川との合流点にあることから命名された。
フランス名はテルモンド (Termonde) である。
歴史
中世以前
アッペルスから発見されたラ・テーヌ文化の遺物は、先史時代からスヘルデ川流域に人類が居住していたことを物語る。2世紀と6世紀の古墳も、ガロ・ローマ文化からメロヴィング朝にかけて比較的大きな集落が存在したことの証左である。843年のヴェルダン条約でロタリンギアに編入されたが、883年のノルマン人侵攻でフランドル伯ボードゥアン2世に占領され、フランドル伯領に組み込まれた。
10世紀にはオットー2世が砦を築き、一帯への入植を奨励した。1233年に特許状が下賜されて以降は、織物業の繁栄に支えられ急速に発展。修道院、礼拝堂、教会などができ、市壁もめぐらされた。14世紀末にはマーケット広場に織物の取引所と鐘楼が建てられた。一方で、ヘントなど他都市との熾烈な競争や近隣からの襲撃や略奪にも晒された。1384年にヴァロワ家系ブルゴーニュ家の支配下に入った。
近世以降
16世紀に入ると、デンデルモンデは衰退に向かった。1572年にパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ麾下のスペイン軍が市中に侵攻し、街は壊滅した。彼らはデンデル川とスヘルデ川との間に砦を築いた。1667年にフランス軍が市街を奪還したが、1706年のマールバラ公ジョン・チャーチル率いるイングランド=オランダ連合軍との戦いでは甚大な被害が出た。その後支配者となったオーストリアは、フランスのさらなる攻撃に備え都市の守りを固めたが、ルイ15世による包囲を最後にそれは途絶え、数年後に砦も解体された。
産業革命と地元の綿花産業に支えられ、18世紀後期はおおむね繁栄。油脂、製靴、皮革などの参入にともなって港湾施設は近代化され、鉄道も開通した。一方で、第一次世界大戦での戦禍は苛烈を極めた。家屋の過半数が破壊され、公文書は焼かれるか空襲を受けるかして灰燼に帰した。こんにち、デンデルモンデ市は地域の行政、経済、教育、医療の中心地となっている。
名所
- 1998年に世界遺産「フランドル地方のベギン会修道院群」の一つとして登録された修道院
- 1999年に世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」の一つとして登録された市庁舎と鐘楼
- 市の中心部にあるベネディクト会の修道院
- デンデルモンデ=ピルス間の14kmを走る保存鉄道のデンデルモンデ=ピルス蒸気鉄道
現代のデンデルモンデ
デンデルモンデを有名にした10年に一度行われる教会行列では、ロス・ベイアールトという巨大な馬の像が市中を練り歩く。言い伝えによると、この馬はカール大帝の侵略から主人と3頭の兄弟を守ったという。
2006年8月19日、28人の囚人がデンデルモンデ刑務所から脱走した。そのうち7人は数時間のうちに拘束され、残りもイタリアとロシアで捕らえられた。古くなってさびついた錠を見て脱獄を思いついた彼らは、シーツで互いをつなぎ、壁をよじ登って公衆電話のボックス伝いに逃げるという実に単純な方法で犯行におよんだ。
2009年1月23日には20歳のフランドル人、キム・デ・ヘルダーがシント=ヒリス=ベイ=デンデルモンデ村の保育施設を襲撃。職員1人と8ヶ月と9ヶ月の児童2人の計3人が殺されたほか、20人近くが負傷した[1]。イタリアの歌手、リチアーノ・リガブエはこの事件の犠牲者をしのび“Quando mi vieni a prendere?”(2010年のアルバム“Arrivederci, Mostro!”に収録)の曲をささげた[2] 。
ゆかりの人物
- ポリドア・ディ・キーザー(1832年 - 1918年) ロンドン市長
- アルヴィン・デ・プリンス(1978年 - ) 競泳選手
- ピーター=ジャン・ディ・スメット(1801年 - 1873年) ネイティブ・アメリカンに布教してまわった宣教師
- ジェームズ・オリヴァー・ヴァン・ディ・ヴェルド(1795年 - 1855年) シカゴ主教、ミシシッピ主教
- ヤン・デ・フォス(1844年 - 1923年) アントウェルペン市長
- エマニュエル・ヒール(1834年 - 1899年) 詩人、散文作家
- フェルナン・クノップフ(1858年 - 1921年) 画家
- キム・カイ(1978年 - ) 歌手
- カロリーネ・マース(1982年 - ) テニス選手
- ヨハネス・オケゲム(1410年ごろ - 1497年) 作曲家
- イボ・バンダム(1954年 - 1976年) 長距離走選手
- パット・ヴァン・デン・ハウヴェ(1960年 - ) サッカー選手。先妻は歌手のマンディ・スミス
- ヘールト・デ・フリーガー(1970年 - )サッカー選手。元ベルギー代表。
- ヒー・フェルホフスタット(1953年 - ) 元首相。
- ディルク・フェルホフスタット(1955年 - ) 政治学者。ヒーの弟
- フランス・カウルテンス(1854年 - 1943年) 画家
- ヤーク・ファンデルペレン(1920年 - 1944年) 第二次世界大戦でのイギリス空軍のパイロット。スーパーマリン スピットファイアで近接支援中、ドイツ陸軍に撃墜された
- ヤン・フェルハス(1834年 - 1886年) 画家
- フランス・フェルハス(1827年ごろ - 1897年ごろ) 画家
- クレマン・ロレ(1833年 - 1909年) 作曲家
- ベルニス・コピエテルス(1970年 - ) バレエダンサー
姉妹都市
ヘルドロプ(オランダ)
ニーンブルク/ヴェーザー(ドイツ)
ブラゴエヴグラト(ブルガリア)
脚注
- ^ “Five dead in knife attack at Belgian creche”. Telegraph.co.uk (2009年1月23日). 2010年5月17日閲覧。
- ^ “Quando mi vieni a prendere? (Dendermonde 23/01/09)” (Italian). Ligachannel (2010年4月26日). 2010年5月17日閲覧。
外部リンク
- 公式ウェブサイト (オランダ語)
- デンデルモンデの文化に関するサイト (オランダ語)
- テルモンドのページへのリンク