テクムセの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:47 UTC 版)
詳細は「テカムセの戦争」を参照 ショーニー族の指導者テクムセは、1811年の戦いを始める前に、南部に戻ってきて、チカソー族、チョクトー族、マスコギー族およびチェロキー族の支援を得て、昔のように同盟を作りアメリカ人を追い出そうと考えた。テクムセは一部の例外を除いてほとんど支援を得られず、チェロキー族の代表からは強い反対を受けた。しかし、テクムセが南部にいる間、47名のチェロキー族と19名のチョクトー族が熱心にその護衛を務めた。 テクムセの来訪は、元チカマウガの住人で預言者のツァリによる宗教復活に火を付けた。いわゆる「チェロキー・ゴースト・ダンス」運動である。ウスタナリ集落でツァリが開いた民族集会では多くの指導者が心を動かされた。しかし、メイジャー・リッジが雄弁に反論してテクムセとの同盟よりもアメリカ側に付くことになった。その結果アンドリュー・ジャクソン率いるアメリカ軍に500名以上のチェロキー族戦士が志願兵として参加し、クリーク戦争でレッド・スティックスの指揮する元マスコギー族の一派を破った。 1794年の条約以降、東テネシーでは活動的なチェロキー戦士は見られず、南北戦争の時になってウィリアム・ホランド・トーマスが南軍側でチェロキー・インディアン部隊を率いた。
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