ティルピッツの辞任とユトランド沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「ティルピッツの辞任とユトランド沖海戦」の解説
1916年初、ドイツの首脳部は再び対英潜水艦作戦の増強について討議した。セルビアが敗れたことで、ファルケンハインはヴェルダン攻勢のほかにも(アメリカを敵に回してでも)イギリスに対しより積極的に行動する時期が来たと考えた。ヘンニング・フォン・ホルツェンドルフ(英語版)海軍参謀総長(英語版)も1年以内にイギリスを屈服させられることを保証した。ベートマン・ホルヴェークは交渉の末ヴィルヘルム2世に決定を先延ばしにさせることに成功、当面は潜水艦作戦の増強(警告なしで武装した商船を撃沈することを許可、ただし無制限潜水艦作戦は不可)を決定した。 3月初、ドイツ帝国海軍省(英語版)がマスコミで無制限潜水艦作戦を支持する宣伝攻勢を始め、ヴィルヘルム2世を激怒させたためティルピッツは3月15日に海軍大臣を辞任せざるを得なかった。ドイツ潜水艦による客船サセックス攻撃がアメリカとの間で問題となり、ドイツは5月にサセックスの誓約(英語版)を出して潜水艦作戦の増強を取りやめることとなった。 5月31日から6月1日にかけて、両軍艦船合わせて排水量180万トンにもなる「世界史上最大の海戦」という予想外のユトランド沖海戦が行われ、両軍合計で8,600人が死亡した(その中には作家のゴルヒ・フォック(英語版)もいた)。ドイツの大洋艦隊は規模で上回るイギリス艦隊に対し幸運にも逃走に成功。またイギリス艦隊の損害はドイツ艦隊のそれを上回ったが、戦略的には何も変わらず、イギリスは北海の制海権を保った。
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