チェルニゴフ侵攻
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「ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)」の記事における「チェルニゴフ侵攻」の解説
1196年夏、リューリクは自身の一族やポロヴェツ族による軍勢を率いて、チェルニゴフ公国領へ侵攻した。ヤロスラフも軍を発し、夏の間、互いの領土に侵攻、略奪を繰り返した。なお、『キエフ年代記』(『イパーチー年代記』の一部)によれば、リューリクはウラジーミル大公フセヴォロドに援軍を要請したが、この時期には、フセヴォロドはこれに応じた行動を起こさなかったことが記されている。また、『ノヴゴロド年代記』は、フセヴォロドはノヴゴロド公国軍を招集したが、ノヴゴロド軍はルーキ(ノヴゴロド公国南部)でとどまったと記している。 1196年の秋になると、再起したヴォルィーニ公ロマンが、リューリク、ダヴィドらの領土への侵略を始めた。ロマンは、かつてリューリクと和解した際に与えられていたポロニィを侵略拠点としていた。これに対しリューリクは、甥のムスチスラフ(通称ウダトヌィー)をガーリチ公ウラジーミルのもとに派遣して、ロマンの領土の攪乱を求めた。ウラジーミルはこの要請に応じ、ムスチスラフ・ウダトヌィーとともに、ロマン領の都市ペレミリ(ru)を焼いた。同じく、リューリクの息子ロスチスラフも、黒頭巾族を率いてロマン領に侵攻し、カメネツ(現カミャネツ・ポジリシクィーとも)に火を掛けた。 同じく1196年秋、ウラジーミル大公フセヴォロドが、リューリクの弟ダヴィド、ダヴィドの娘婿グレプらとともにチェルニゴフ公国に侵攻し、ヴャチチの諸都市(旧ヴャチチ族居住地)を占拠した。ヤロスラフは、リューリクの攻撃に備えて籠城するよう諸公・諸都市に指示を出し、チェルニゴフの防衛は甥オレグ(ru)、グレプに任せると、一族の公やポロヴェツ族を率いて自ら出陣し、フセヴォロド軍に向かった。そして橋を落とし、防衛線を構築したのちに、フセヴォロドに和平協定の使者を送った。ダヴィドは、兄リューリク不在の席で和平協定を進めることに反対したが、フセヴォロドは、先のヴィテプスクをめぐる戦いで捕虜となっていたムスチスラフの解放、フセヴォロドの政敵であり、チェルニゴフ公国に庇護されていたヤロポルクの追放、ヴォルィーニ公ロマンとの同盟関係の破棄を条件として、和平条約を持ちかけた。チェルニゴフ公ヤロスラフは、ロマンとの同盟破棄は拒否したが、残る二つの条件には同意し、フセヴォロドとヤロスラフとの間で和平条約は締結された。フセヴォロドはまた、リューリクの持つキエフ公国、ダヴィドの持つスモレンスク公国の領有権を要求しないことを、ヤロスラフに誓わせた。これによって戦争は終結した。
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