チェルニゴフ侵攻とは? わかりやすく解説

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チェルニゴフ侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 02:24 UTC 版)

ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)」の記事における「チェルニゴフ侵攻」の解説

1196年夏、リューリク自身一族ポロヴェツ族による軍勢率いてチェルニゴフ公国領へ侵攻したヤロスラフも軍を発し、夏の間、互い領土侵攻略奪繰り返した。なお、『キエフ年代記』(『イパーチー年代記』の一部によればリューリクウラジーミル大公フセヴォロドに援軍要請したが、この時期には、フセヴォロドはこれに応じた行動を起こさなかったことが記されている。また、ノヴゴロド年代記』は、フセヴォロドはノヴゴロド公国軍を招集したが、ノヴゴロド軍はルーキ(ノヴゴロド公国南部)でとどまった記している。 1196年秋になると、再起したヴォルィーニ公ロマンが、リューリクダヴィドらの領土への侵略始めたロマンは、かつてリューリク和解した際に与えられていたポロニィを侵略拠点としていた。これに対しリューリクは、甥のムスチスラフ通称ウダトヌィー)をガーリチ公ウラジーミルのもとに派遣してロマン領土攪乱求めたウラジーミルはこの要請応じ、ムスチスラフ・ウダトヌィーとともにロマン領の都市ペレミリ(ru)を焼いた同じくリューリク息子ロスチスラフも、黒頭巾族を率いてロマン領に侵攻しカメネツ(現カミャネツ・ポジリシクィーとも)に火を掛けた同じく1196年秋、ウラジーミル大公フセヴォロドが、リューリクの弟ダヴィドダヴィド娘婿グレプとともにチェルニゴフ公国侵攻し、ヴャチチの諸都市(旧ヴャチチ族居住地)を占拠したヤロスラフは、リューリク攻撃備えて籠城するよう諸公・諸都市指示出しチェルニゴフ防衛は甥オレグ(ru)、グレプ任せると、一族の公やポロヴェツ族率いて自ら出陣し、フセヴォロド軍に向かった。そして落とし防衛線を構築したのちに、フセヴォロドに和平協定使者送ったダヴィドは、兄リューリク不在の席で和平協定進めることに反対したが、フセヴォロドは、先のヴィテプスクをめぐる戦いで捕虜となっていたムスチスラフ解放、フセヴォロドの政敵であり、チェルニゴフ公国庇護されていたヤロポルクの追放ヴォルィーニ公ロマンとの同盟関係破棄条件として、和平条約持ちかけた。チェルニゴフ公ヤロスラフは、ロマンとの同盟破棄拒否したが、残る二つ条件には同意し、フセヴォロドとヤロスラフとの間で和平条約締結された。フセヴォロドはまた、リューリクの持つキエフ公国ダヴィドの持つスモレンスク公国領有権要求しないことを、ヤロスラフに誓わせた。これによって戦争終結した

※この「チェルニゴフ侵攻」の解説は、「ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)」の解説の一部です。
「チェルニゴフ侵攻」を含む「ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)」の記事については、「ルーシ内戦 (1195年 - 1196年)」の概要を参照ください。

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