チェルニゴフ公国争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 07:48 UTC 版)
「オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)」の記事における「チェルニゴフ公国争奪戦」の解説
「ルーシ内戦 (1094年 - 1097年)」および「リューベチ諸公会議」も参照 1094年、オレグは父の有していたチェルニゴフ公位を自身のものにするため、ポロヴェツ族と結んでチェルニゴフへの遠征を行った。時のチェルニゴフ公はウラジーミル・モノマフであり、オレグはモノマフの籠るチェルニゴフを8日間に渡って包囲した。チェルニゴフは戦禍にまみれ、おそらく最終的には、モノマフはチェルニゴフを明け渡してペレヤスラヴリへと撤退した。ポロヴェツ族はチェルニゴフで略奪を行い、オレグもそれを許可した。なお、『イーゴリ軍記』においては、オレグはゴリスラヴィチ(悲しみの子)と呼ばれ、ルーシの地にポロヴェツ族を引き込んだ元凶として非難されており、『イパーチー年代記』では、オレグはルーシの地に異教徒を呼び寄せ、多くのキリスト教徒の血が流されたと記している。 1095年、ルーシ諸公によるポロヴェツ族への遠征軍が計画されるが、オレグはこれに参加せず、ムーロム(ムーロム公位にあったのはモノマフの子のイジャスラフ)を攻めている。1096年、モノマフとキエフ大公スヴャトポルクは、ルーシの地を異教徒(ポロヴェツ族)から守るための交渉を望み、オレグに使者を送ったが、オレグはこれに応じなかったため、モノマフとスヴャトポルクはチェルニゴフへ軍を進めた。オレグはチェルニゴフ公国領北部の都市スタロドゥーブへ転じ、33日間の防衛戦を繰り広げた後、和平交渉をモノマフらに求めた。モノマフらはオレグに、オレグの兄弟のスモレンスク公ダヴィドと共にキエフへ来て交渉の席に着くよう求めたが、オレグはこれに反してスモレンスクへ行くと、ダヴィドの連隊を率いて再度ムーロムを攻め、ムーロム公イジャスラフを戦死させた。さらにスーズダリ、ロストフをも陥とし、ムーロム公国・ロストフ公国領全域を手中に収めると、ポサードニクを配してダーニを課した。しかしノヴゴロド公ムスチスラフ(モノマフの長男)に戦況を巻き返され、オレグはモノマフらと和平交渉を結んだ。 1097年、モノマフとキエフ大公スヴャトポルクは紛争の終結を目的とする諸公会議を提案し、オレグもこれに参加した。リューベチにおいて行われたこのリューベチ諸公会議において、諸公が自領を世襲領(父祖の地・ヴォチナ(ru))とする原則が取り決められ、チェルニゴフ公国領がオレグら兄弟のヴォチナとして認められた。オレグはチェルニゴフ公国領の都市ノヴゴロド・セヴェルスキーとクルスクを得、ノヴゴロド・セヴェルスキー公国を統治した。
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