チェルニゴフとペレヤスラヴリの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
「キプチャク」の記事における「チェルニゴフとペレヤスラヴリの戦い」の解説
1152年、スーズダリ公となったユーリーはゴロドークの人々が四散し、町が焼き払われたことを知ると、戦士たちを集めた。ポロヴェッツ人も、オペルリュエフ一族,トクソビチ一族を始め、ヴォルガ川とドニェプル川の間にあるポロヴェッツ人全てが出動した。スモレンスク公のロスチスラフはフセヴォロドの子スヴャトスラフと合流し、ダヴィドの子イジャスラフを支援すべく、チェルニゴフに向かい、そこで籠城した。ユーリーはグリチョフの近くに留まり、ポロヴェッツ人をチェルニゴフ攻囲に向かわせた。ポロヴェッツ人は多くの捕虜を捕え、セムイニを焼き払い、外廊を奪取した。この時、ヴャチェスラフとキエフ大公イジャスラフ2世はルジーチのあたりに留まっていたが、ポロヴェッツ人がチェルニゴフに火を放ったことを聞いてチェルニゴフに向かった。途中、モラヴィースクのあたりでユーリーの軍と遭遇し、戦闘になった。ポロヴェッツ人はヴャチェスラフとイジャスラフ2世がチェルニゴフに向かっていることを聞き、驚愕してチェルニゴフから離れ始めた。これを見たロスチスラフらはチェルニゴフから撃って出た。やがてヴャチェスラフとイジャスラフ2世と合流し、ユーリーの軍が後退するのを見ると、自分たちも軍を退いた。 1154年、キエフ大公イジャスラフ2世が亡くなり、弟のロスチスラフが新たなキエフ大公(ロスチスラフ1世)となると、ユーリーの子グレープが多数のポロヴェッツ人を率いてペレヤスラヴリに侵攻した。ロスチスラフ1世は子のスヴャトスラフを派遣し、ペレヤスラヴリ公のムスチスラフと合流させた。両軍は激しく戦ったが、ポロヴェッツ人がスヴャトスラフの増援を見て町から離れ、スラ川の彼方へ去ったため、ペレヤスラヴリの危機は免れた。
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