タンザニアのンゴニ族とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > タンザニアのンゴニ族の意味・解説 

タンザニアのンゴニ族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/27 16:59 UTC 版)

ンゴニ族」の記事における「タンザニアのンゴニ族」の解説

ズワンゲンダバ(英語版)が死ぬ1848年の後、息子たちそのあとを継ぐ。しかし、軍を指揮していたズールー・ガマが離反し“グワングワラ”と呼ばれるガマ・ンゴニを率いて南東現在のルヴマ州ソンゲア周辺移動した。そこに、マラウイマンゴチからソンゲア移動してきたマセコ・ンゴニが接触し、しばらく平穏保った。後に戦闘状態に入りズールー・ガマが勝利し、マセコ・ンゴニは一部集団分裂伴いマラウイ撤退し南部ンゴニランドを形成したその後、ガマ・ンゴニ(“グワングワラ”)の集団南北分裂し、チペタ率いるムショペ・ンゴニが現在のソンゲア北部に、ンジェル・ンゴニが南方成立したイリンガムクワワヘヘ族(英語版諸部族統一し強力な勢力持ちンゴニ族領域攻撃をかける。1882年ムクワワの軍がムショペ・ンゴニ族長チャブルマ(Chabruma、チペタの子)の軍を破るが、これ以降両軍戦闘休止する。このヘヘ族との戦争で、ンジェル・ンゴニのソンゲア・ルワフ・ムバノ活躍見せ名声得た詳細は「ソンゲア・ルワフ・ムバノ」を参照 この1882年からムショペ・ンゴニは軍を西に向け、現在のムトワラ州マサシ英語版)に遠征し教会施設襲撃。さらにザラモ族(英語版)の土地現在のダルエスサラーム周辺)までをも脅かした。 (その後ヘヘ族(英語版)はドイツ領東アフリカとの戦争敗れて力を失った)。1892年ドイツ領東アフリカ政府ソンゲアの町に役所設置部隊駐留させて示威演習行いンゴニ族牽制した。しかし、1905年マジ・マジ反乱勃発すると、ムショペ・ンゴニ族長チャブルマはこれに参加その後にンジェル・ンゴニ族長ムプタも参加する。しかし、1906年2月鎮圧され、ンジェル・ンゴニ族長ムプタはじめ副族長たちと戦士たち数十名が絞首刑となる。その後ソンゲア・ルワフ・ムバノ投降したため釈放され得るところを、自ら絞首刑望んで処刑されたという。ンゴニ族土地では、総督指令した焦土作戦が行われた。ムショペ・ンゴニ族長チャブルマは健在だったものの権威失墜飢饉発生により、ンゴニ族往時勢いを完全に失った

※この「タンザニアのンゴニ族」の解説は、「ンゴニ族」の解説の一部です。
「タンザニアのンゴニ族」を含む「ンゴニ族」の記事については、「ンゴニ族」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「タンザニアのンゴニ族」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「タンザニアのンゴニ族」の関連用語

1
18% |||||

タンザニアのンゴニ族のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



タンザニアのンゴニ族のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのンゴニ族 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS