タティキオスの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)
「アンティオキア攻囲戦」の記事における「タティキオスの離脱」の解説
2月に入ると、東ローマ帝国の将軍で、皇帝アレクシオス1世コムネノスの特使として十字軍に付いて助言やアナトリア半島の道案内などを行ってきたタティキオスが、突然十字軍の宿営を離れた。アレクシオス1世の娘アンナ・コムネナの書いた歴史書によれば、十字軍はタティキオスの助言を聞くのを拒み続け、ボエモンはタティキオスに、「他の十字軍諸侯らの間にはタティキオスが秘密裏にセルジューク側を助けているという説があり殺す計画もある」と打ち明けたという。 一方でボエモンは、タティキオスは裏切ったか、臆病になって敵前逃亡したのだと主張し、アンティオキアを東ローマ帝国に返還するという義務はもはや守らなくて良くなったと公言した。ボエモンはまた、アンティオキア陥落後にアンティオキアを自分の領地とする許しが下りないならば自分も陣営を離れると言い始めた。タティキオスに対して暗殺の陰謀があるなどと打ち明けて陣営を離れることを勧めたのは、おそらくアンティオキア領有を主張するための策略であった。ゴドフロワとレーモンはボエモンの脅しを相手にしなかったが、下級騎士や兵士らの間ではボエモンを支持する声が広がった。この間、ヤギ=シヤーンは近隣のムスリム政権へ救援を求め続けており、アレッポからリドワーン率いる軍勢が到着した。しかし2月9日にアンティオキア近郊のハリムでドゥカーク同様に十字軍に破れ、アンティオキアを助けないまま退却していった。
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