タテカワ講の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 03:24 UTC 版)
明山徳行が明治2年に没した後は、子の2代目西川伊三郎がタテカワ講4代目を継承するが、この人物も早世している。大野三郎という先達もいたが、川崎宿が鉄道の開通によって宿場機能を失ったこともあり、明治中期には完全にタテカワ講が消滅した。大田区の各所にあった枝講の一部は扶桑教に属したものもあったが、戦後の混乱で衰退していった。また、横浜市港北区太尾町(大倉山)や川崎市幸区小倉の枝講は明治中期になると、横浜市鶴見区江ヶ崎を中心に地元の鴨志田与右衛門によって結成された本一講の傘下に入り早い時期に消滅した。
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