ゾンネンヴェンデ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 17:38 UTC 版)
「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「ゾンネンヴェンデ作戦」の解説
1945年2月中旬、ドイツ軍はアルンスヴァルデ(Arnswalde、現ホシュチュノChoszczno)で包囲されたドイツ陸軍第11装甲軍団およびその他の部隊を救出する「ゾンネンヴェンデ」(独:Sonnenwende、冬至)作戦を実施した。この作戦で「ヴェロニェン」師団は攻撃任務を与えられ、その中にはリンデンベルク(Lindenberg、現リプニクLipnik)への陽動攻撃も含まれていた。 2月16日、ジャック・カペルSS中尉(SS-Ostuf. Jacques Capelle)率いる「ヴァロニェン」師団第69SS擲弾兵連隊第7中隊はリンデンベルクへの攻撃を成功させ、24時間その陣地を死守するよう命じられた。 しかし翌日の2月17日、彼らの陣地にソビエト赤軍の戦車が大挙して押し寄せ、たちまち激戦が繰り広げられた。ワロン人義勇兵たちは戦場中を埋め尽くした敵戦車の多くを破壊したが、同時にすべてのパンツァーファウストを使い果たしてしまった。中隊長カペルSS中尉は無線で後退許可を願い出たが、やがて後退すら不可能な状況に追い込まれた。迫り来るソビエト赤軍に対し、重傷者でさえ絶命の瞬間まで銃を撃ち続けたが、ワロン人義勇兵たちは次々とソビエト赤軍の戦車に蹂躙されていった。 そのような状況の中、カペルSS中尉の中隊指揮所は27時間に渡ってソビエト赤軍の攻撃を防いでいたが、夕暮れ時にとうとう制圧されてしまった。そして、重傷を負っていたカペルSS中尉は敵兵に捕まる寸前、拳銃の弾丸を自分の頭部に撃ち込んで自決した。 この一連の出来事は負傷して泥濘に倒れた状態でその瞬間を目撃し、後に瀕死の状態でドイツ軍戦線に辿り着いた2名のワロン人義勇兵によって伝えられた。翌日、「国防軍軍報」でジャック・カペルSS中尉の第7中隊の死闘が賞賛され、カペルSS中尉には騎士鉄十字章の追贈が約束された。 一方、「ゾンネンヴェンデ」作戦の初期の攻撃は成功し、第3SS装甲軍団はアルンスヴァルデに到達した。しかし、ソビエト赤軍が態勢を立て直して防御を固めると、第11装甲軍団の必死の攻撃にもかかわらず、作戦続行は不可能となった。「ヴァロニェン」師団をはじめ、ドイツ軍は多数の死傷者を出す大損害を被り、アルンスヴァルデからの撤退を余儀なくされた。
※この「ゾンネンヴェンデ作戦」の解説は、「第28SS義勇擲弾兵師団」の解説の一部です。
「ゾンネンヴェンデ作戦」を含む「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事については、「第28SS義勇擲弾兵師団」の概要を参照ください。
- ゾンネンヴェンデ作戦のページへのリンク