ゼーリゲンシュタット修道院、ディーツ伯領(1053年 - 1388年)、都市権(1281年)
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「バート・カムベルク」の記事における「ゼーリゲンシュタット修道院、ディーツ伯領(1053年 - 1388年)、都市権(1281年)」の解説
1018年の皇帝ハインリヒ2世の文書によれば、Cagenberg はラーンガウに属していた。同じ年にこの農場はブルトシャイト修道院からゼーリゲンシュタット修道院の所有に替わった。地名は Cagenberg から Cainburg、Camburg、Kamberg、Camberg と変化し、他にも Cagenberc(1018年)、Kamberch(1156年)、Kahberg(1194年)、Kamberc(1197年)、その後 Kaynburg といった表記がなされた。この集落は1053年に、コンラディン家断絶後にその遺領の一部を受け継いだディーツ伯(ドイツ語版)の所領となった。ディーツ伯は1388年までこの街を支配した。バート・カムベルクはディーツ伯の支配領域で最も南に位置する大きな集落で、領域を接するイトシュタイン伯に対して、特別な防御がなされた。現在のアムトホーフの近くにカムベルク城があった。ディーツ伯ゲルハルト4世の尽力により、1281年8月27日にドイツ王ルドルフ1世は、フランクフルト都市法をモデルとする都市権をこの街に授けた。都市権は、1300年と1336年に更新された。ただしこれは Freiung(税や法的規定の一部免除)に過ぎず、都市への完全な昇格ではなかった。これにより、カムベルクは Minderstadt(直訳: 小都市)の状態にあった。この街は、1356年/1357年にやっと完全な都市権を獲得し、1365年に確認書が授与されている。遅くともこの権利の結果として、市壁(ドイツ語版、英語版)の建設が始まり、おそらく1380年頃に完成した。 領主の他にも多くの地主がこの都市に土地を所有していた。そのなかでもリムブルクのゲオルク教会(ドイツ語版、英語版)が最も重要であった。 1311年にカムベルクのツェント裁判所(伯の支配下にある裁判所)が初めて記録されている。この裁判所は1800年頃まで存続していた。遅くとも1548年には重罪刑事裁判もカムベルクの裁判所で扱っていた。しかし遅くとも18世紀にはこの裁判所の重要性は大きく後退していた。 1357年の公現祭の後、ヴァルスドルフの盗賊騎士がこの街を訪れ、略奪しようとした時、全てのカムベルク住民が酔っ払って眠っていたという伝説がある。当時市壁はまだ建設途中で、逆茂木を通り抜けるだけであった。しかしここに棲んでいたカササギが、強盗を察知し、鳴いて知らせた。それによってカムベルク住民が目を覚まし、襲撃は失敗して、ヴァルドルフの一味は群衆に袋叩きにあった。現在でもカカサギはこの街の「非公式な紋章の鳥」とされている。
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