ズラ (エリトリア)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/23 02:52 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ズラ ዙላ |
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座標: 北緯15度14分44秒 東経39度40分4秒 / 北緯15.24556度 東経39.66778度 | |
国 | ![]() |
地方 | セメナウィ・ケイバハリ地方 |
地区 | フォロ地区 |
標高 | 21m (72ft) |
等時帯 | 東アフリカ時間 (UTC+3) |
ズラ(英語: Zula、ティグリニャ語: ዙላ)はエリトリア・セメナウィ・ケイバハリ地方南部・フォロ地区の紅海沿岸に存在する町。ズラ湾(アンスレイ湾)の西岸奥に存在している。行政府所在地のフォロから東に4.5km離れている。北緯15度14分44秒東経39度40分4秒。標高21m。
歴史
古代アクスム王国の領土であり、ズラから4km離れた場所にアクスム王国の交易地及び港の遺跡であるアドゥリスが存在する。1857年、テオドロス2世のエチオピア帝国に反乱を起こしていたティグレ族の首長、デジャズ・ネグシエ(Dejaz Negusye)によってフランスにズラを割譲する協定が結ばれた。デジャズ・ネグシエがテオドロス2世に破られたためこの協定は履行されなかったが、この際に派遣されたフランスの巡洋艦は無主の土地を発見した。しかし、1866年にこの地がエジプトに隣接する海岸線とされたためにフランスは主権を主張しなかった。翌1867年から1868年にかけてのイギリスによるエチオピア遠征に際しては、このズラの港が上陸地及び停泊地として選ばれた。また、この遠征の際にアビシニア高原のセナフェまで道路が建設された。1888年、この地におけるエジプトの主権は失われ、イタリアによる保護国化の宣言がなされた。1890年にはイタリア植民地・エリトリアに組み込まれた。1941年からイギリスの軍政下・保護領に置かれ、1952年にはエチオピアとの連邦国家であるエリトリア領となった。1962年にはエチオピア帝国に併合されたが、1970年代後半までにエリトリア独立戦争における独立勢力の支配下に置かれた。1993年・国民投票によりエリトリアが独立した後はエリトリア領になっている。
脚注
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (in 英語). 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 1049.
関連項目
「ズラ (エリトリア)」の例文・使い方・用例・文例
- 私はそれはビギナーズラックのようなものだと思います。
- エズラ、おまえんとこはみんな今夜来るかね。
- 犬が近づいてウズラが飛び立った.
- 大広間には大名がズラリと居並んだ
- 一同ズラリと居並んだ
- ウズラは、徒歩で、または馬に乗って捕獲される
- 内気で、私は決して笑わなかった;頭を下げ、私は壁を見た−エズラ・パウンド
- 彼は私の葬式で悪口を言うのだろうか−エズラ・パウンド
- コリンウズラ
- 旧世界のウズラ
- 典型的な旧世界産ウズラ
- 中米および南米の、ウズラに似た鳥冠のあるコリンウズラの属
- カンムリウズラ
- 旧世界ヤマウズラ
- ヤマウズラ亜科の1属
- 一般的な欧州産のヤマウズラ
- 赤い肢を持つ一般的な西ヨーロッパ産ヤマウズラ
- 米国西部産のヤマウズラ
- カリフォルニア産のヤマウズラ
- ウズラクイナ類
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