スプリト教会会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 03:10 UTC 版)
「トミスラヴ (クロアチア王)」の記事における「スプリト教会会議」の解説
925年に教皇ヨハネス10世はスプリトで教会会議を開催し、クロアチア人の司教であるニン司教グルグールとスプリト大司教のヨハネスが教会管轄権を巡って争った。教会会議が開催される前、グルグールはヨハネスよりも重要かつ広い司教区を有していたが、彼の評価や財政状況は考慮されなかった。またスプリト大司教のヨハネスは過去のサローナ大司教との連続性を主張し、伝統を重視した教会会議はスプリト大司教に管轄権を認め、イストリアのラシャ川(英語版)からコトルまでの領域はスプリト大司教区に区画され、その中にはニンも含まれていた。さらに、教会会議では典礼におけるスラヴ語とグラゴル文字の使用についても議論された。教皇はそれらの使用を禁じようとしたが、教会会議では現地の司祭と修道士がスラヴの言語を用いることが認められる。しかし、スラヴの言語を使用する聖職者は高位に進むことはできなかった。 大助祭トマスは著書『ヒストリア・サロニタナ』の中で教会会議について言及していないが、925年の教会会議の決定とは反対に、テマ・ダルマチア時代より前の7世紀からスプリトは管轄権を持っていたことを主張している。トマスは自分の意見の正当性を保つために教会会議の意見を黙殺していたと考えられている。 教会会議にはトミスラヴのほかにザクルミア(英語版)のザクルミアのミハエル(英語版)が出席し、トミスラヴは教会会議に関する文書で「王」と呼ばれている。何人かの歴史家はミハエルがトミスラヴの支配を認め、ザクルミアはクロアチアに臣従したと記している。トミスラヴは教会会議の決定に抗議しなかった。グルグールは教皇に訴え、論争の解決と925年の最初の教会会議の決定を実行するために928年に2回目の教会会議が開催された。会議の結果スプリト大司教の優越性が確認され、ニン司教区は廃止される。
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