ストライカー (護衛空母)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 03:08 UTC 版)
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艦歴 | |
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発注 | |
起工 | 1941年12月15日 |
進水 | 1942年5月7日 |
就役 | 1943年4月28日 |
退役 | 1946年2月12日 |
除籍 | 1946年3月28日 |
その後 | 1948年に廃棄 |
性能諸元 | |
排水量 | 14,400トン |
全長 | 491 ft 6 in (150 mm) |
全幅 | 105 ft (32 m) |
吃水 | 26 ft (7.9 m) |
機関 | 蒸気タービン1軸推進、8,500shp |
最大速 | 18 ノット (33 km/h) |
航続距離 | |
乗員 | 士官、兵員646名 |
兵装 | 4インチ砲2門、40mm機銃8基、20mm機銃20基 |
搭載機 | 20 |
プリンス・ウィリアム (USS Prince William, AVG/ACV/CVE-19) は、アメリカ海軍の護衛空母。ボーグ級航空母艦の1隻。
艦歴
プリンス・ウィリアムは海事委任契約の下カリフォルニア州サンフランシスコのウェスタン・パイプ&スチール社で1941年12月15日に起工する。1942年5月7日にレンドリース法に基づきイギリス海軍への移管が指定されストライカー (HMS Striker, D12) と改名される。1942年8月20日に ACV-19(補助空母)に艦種変更され、1943年4月28日に海軍に引き渡される。1943年5月18日にイギリス海軍に移管され、1943年7月15日に CVE-19(護衛空母)に艦種変更された。
第二次世界大戦ではイギリス海軍に所属し活動した。1946年2月12日にノーフォークでアメリカ海軍に返還され、1946年3月28日に除籍された。1948年6月5日にペンシルベニア州ベスレヘムのパタプスコ・スチール・スクラップ社にスクラップとして売却された。
関連項目
外部リンク
「ストライカー (護衛空母)」の例文・使い方・用例・文例
- 政府は、冷酷にもストライカーを収拾するための、迅速な措置をとるよう迫られた
- ボールの素晴らしいストライカー
- サッカーで,ストライカーという役割
- サッカーで,ストライカーである選手
- 試合開始後2分,ベレーザのエースストライカーである荒(あら)川(かわ)恵(え)理(り)子(こ)選手が先制ゴールを決めた。
- しかし,ジェフユナイテッド市原・千葉のストライカー,巻(まき)誠(せい)一(いち)郎(ろう)選手がかわりに選ばれたのだ。
- その3点のうちの2点は流経大柏のエースストライカー大(おお)前(まえ)元(げん)紀(き)選手が巧みな足技で決めた。
- 前半33分,スペインのストライカー,フェルナンド・トーレス選手がミッドフィルダーのシャビ・エルナンデス選手からスルーパスを受けた。
- ゴールデンブーツ賞はスペインのストライカー,ダビド・ビジャ選手に贈られた。
- しかし,前半9分に日本のストライカーの岡崎慎(しん)司(じ)選手が活気を取り戻した。
- この試合唯一のゴールは前半19分に日本のストライカー,岡(おか)崎(ざき)慎(しん)司(じ)選手が決めた。
- 第2戦の前半,シャルケのベテランストライカー,ラウル・ゴンザレス選手が先制ゴールを決めた。
- 7分後,ユナイテッドのストライカー,ウェイン・ルーニー選手が同点ゴールを決めた。
- 45歳のストライカーは,「一定レベルのプレーを保ちたいと思うが,もう体がそうさせてくれない。」と話した。
- 名古屋グランパスのストライカー,永井謙(けん)佑(すけ)選手(23)がベルギー1部リーグのサッカークラブ,ロワイヤル・スタンダール・ドゥ・リエージュに入団した。
- 横浜F・マリノスのストライカー,小野裕(ゆう)二(じ)選手も先日,リエージュに入団した。
- 11月22日,サンフレッチェ広島のストライカーである佐藤寿(ひさ)人(と)選手が,エディオンスタジアム広島で行われた湘(しょう)南(なん)ベルマーレ戦で,自身の今季12点目をヘディングで決めた。
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