ジョン・ブラウンの襲撃
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「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「ジョン・ブラウンの襲撃」の解説
詳細は「ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)」を参照 この討論に続いて、コネチカット州出身の奴隷制度廃止運動家の行動で新しい暴力の方に注意が向けられた。ジョン・ブラウンは奴隷制度擁護派と戦うためにゲリラ戦をも推奨する攻撃的な奴隷制度廃止運動家だった。マサチューセッツ州の事業や社会の著名な指導者達、集合的にシークレットシックスと呼ばれた者達から武器や財政的援助を受け、血を流すカンザスの暴力行為に参加し、1856年5月24日にはローレンスに対する襲撃に反応して、ポタワトミ虐殺事件を指導していた。1859年、ブラウンは奴隷を解放するためにバージニア州に向かった。10月17日、ブラウンはハーパーズ・フェリーで連邦政府の武器庫を占領した。その計画は周辺の奴隷を武装させ、奴隷の軍隊を作って南部を席捲し、奴隷所有者を攻撃して奴隷達を解放するというものだった。しかし、土地の奴隷達はブラウンを支援するために立ち上がろうとはしなかった。ブラウンは市民を5人殺し、人質を取った。またプロイセンのフリードリヒ大王がジョージ・ワシントンに送った剣を盗んだ。ブラウンは当時中佐だったロバート・E・リーの指揮する武装軍隊に捕獲された。ブラウンはバージニア州に対する反逆罪で裁判に掛けられ、1859年12月2日に絞首刑に処された。ブラウンは絞首台に進むときに看守に1枚の紙を手渡した。それには「血を流すこと無くしてアメリカ合衆国から奴隷制の『罪』は洗い流せない」と予言してあり、読む人を震え上がらせた。 ハーパーズ・フェリーの襲撃は、ブラウンを犯罪者と見なした南部人を怖がらせ、ブラウンを英雄かつ殉教者と祭り上げた北部奴隷制度廃止運動家に対する不信感を増した。
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