ジャマイカの大地主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 15:51 UTC 版)
「ヘンリー・ドーキンス」の記事における「ジャマイカの大地主」の解説
ヘンリー・ドーキンス(Henry Dawkins、1698年 – 1744年)とエリザベス・ペナント(Elizabeth Pennant、1695年頃 – 1757年、エドワード・ペナントの娘)の三男(第四子)として、1728年5月24日にジャマイカのクラレンドン教区で生まれた。兄に好古家ジェームズ・ドーキンス(英語版)(1722年 – 1757年12月)がいる。ドーキンスがイングランドのアビンドン・スクール(英語版)で教育を受けた一方、父ヘンリーはジャマイカで領地経営を続け、1744年に死去すると息子ジェームズ、ウィリアム、ヘンリーがそれぞれ14,300、5,000、5,700エーカーの領地を継承した。その後、ドーキンスは1745年12月30日にオックスフォード大学セント・メアリー・ホール(英語版)に入学した。オックスフォード大学で学位を修得しないままグランドツアーに出て、1750年に帰国した。 1751年頃にジャマイカに戻り、1752年から1756年/1758年までクラレンドン教区選出のジャマイカ植民地議会(英語版)議員を、1758年から1759年までジャマイカ諮問委員会の委員を務めた。1752年に兄ウィリアムが、1757年に兄ジェームズが死去すると、それぞれの領地(合計で19,300エーカー)を継承、ジャマイカ有数の大地主になった。 1759年に帰国、兄ジェームズが1754年に購入したラヴァーストーク(英語版)の地所を近隣の地主ジョージ・ポータル(George Portal、1793年没)に売却した。同年7月3日にD.C.L.(英語版)の学位を授与され、11月に結婚した(#家族の節を参照)。
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