シーマンの加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「シーマンの加入」の解説
ノイバウアーは前年の不振の責任の一端はドライバーにもあると考えた。円熟期にあったカラツィオラはともかく、ファジオーリは不服従な性格による問題や年齢による衰えがあったことに加えてリウマチによる不調を抱え退潮著しく、新人のラングはまだ経験不足だった。ブラウヒッチュはピットからの指示に従わないことがあって信頼性に欠ける上に、たびたびカラツィオラと張り合ったり、労働者階級出身のラングを見下して無用の争いを起こしたりするところがあり、協調性の面でも問題を抱えていた。このことから、ノイバウア―はドライバーの補強を考え、同年11月に見込みのある30名の新人をニュルブルクリンクに集めて大規模なオーディションを行い、翌1937年に向けてチームとしては初のイギリス人ドライバーとなるリチャード・シーマン(ディック・シーマン)を獲得した。 ファジオーリはアウトウニオンに移籍し、1937年のメルセデスチームはシーマンを加えた新たなカルテットとなった。シーマンは初年度こそ選手権開幕前に事故で負った怪我から不調となるが、シーマンはカラツィオラに似た速さと安定感を兼ね備えたドライビングテクニックを持っており、翌年度からは期待に応えて実力を示していくことになる。また、副作用として、シーマンはイギリス人であることからドイツ社会の階層意識には頓着せずラングとも問題なく付き合い、機転が利き冷静な性格でもあったことから、ブラウヒッチュとラングの喧嘩を仲裁するようになり、ドライバーたちの間にある程度の調和をもたらした。
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