シュガーローフ虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:09 UTC 版)
「ヘイズルトン (ペンシルベニア州)」の記事における「シュガーローフ虐殺」の解説
1780年夏、アメリカ独立戦争の最盛期に、トーリーと呼ばれたイギリス同調者達がニューヨークのモホーク・バレーから集まり、ペンシルベニア北東部のサスケハナ川沿いで独立推進派への攻撃を始めた。この地域でのトーリーの動きに関する報告があったので、ダニエル・クレイダー大尉とノーサンプトン郡から41名の小隊がその調査に派遣された。この隊は「戦士の道」と呼ばれた道伝いに(現在ではペンシルベニア州道93号線)リーハイ・バレーから北に進んだ。このルートはジムソープ(元はモークチャンクと呼ばれた)のリーハイ川とバーウィックのサスケハナ川とを繋いでいる。 クレイダー大尉の隊は北に向かって、現在のコニンガムまで進んだ時に、セネカ族インディアンとトーリーの民兵に待ち伏せされた。9月11日に全部で15名が殺され、後にシュガーローフ虐殺と呼ばれるようになった。 キリスト教の一派であるモラビア教会の宣教師ニコラウス・ルドヴイッヒ・ツィンツェンドルフがワイオミング・バレーに行くために初めて「戦士の道」を使って以後、18世紀初期から信徒がこの道を使っていた。この「戦士の道」の延長には豊富にハシバミの木があった。モラビア教徒はその地域を「聖アンソニーの荒野」と呼んだが、その後「ヘイゼル湿地」と呼ばれるようになった。この名称はそれ以前にインディアンが使っていたものだった。 モラビアの宣教師達がペンシルベニアのベスレヘムの開拓地からシュガーローフ虐殺の起きた場所に派遣され、死んだ兵士の遺体を埋葬した。コニンガム・バレーには絵のように美しい自然美があったので、モラビア教徒の中にはそこに留まる決心をした者もおり、1782年にはネスコペック・クリーク沿いにセントジョンズの開拓地を設立した。そこは現在州間高速道路80号線と州間高速道路81号線の交差する所に近い。
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