シク戦争と王国の英国併合
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「ドゥリープ・シング」の記事における「シク戦争と王国の英国併合」の解説
カールサーは愛国的で勇敢であったが、全く統制のとれていない軍隊であった。その結果、1809年にランジート・シングと不可侵条約アムリトサル条約 (1809年)(英語版)を結んだイギリスは、それが忠実に守られていたにもかかわらず、シク王国の広大な領土に目を向けるようになった。 1845年12月、シク王国の軍隊はイギリスの挑発的な行動に乗せられ、イギリスとの戦争に突入した(第一次シク戦争)。ところが、宰相のラール・シングと軍総司令官のテージ・シングはひそかにイギリスに通じていた。 1846年3月8日、シク王国はイギリスに敗北を認め、ラホール条約を結んで講和した。これにより、首都ラホールにはイギリス人の駐在官が置かれ、王国は多くの領土の割譲を余儀なくされ、軍隊も縮小を余儀なくされた。 同年12月16日には別の条約の締結を余儀なくされ、イギリスの駐在官は王国においてあらゆる権限を行使できるようになり、自らの判断で王国の各地に駐屯地を置くことが認められた。 しかし、1848年5月、これらの植民地支配による各種の改革に不満だった人々が反乱を起こし、第二次シク戦争が勃発したが、弱体化したシク王国はもはやイギリスの敵ではなかった。 こうして、1849年3月26日にシク王国はイギリスに降伏し、29日にイギリスはその領土を併合して、インドの植民地を完成した 。 同年12月21日、ドゥリープ・シングは5万ポンドの年金をあてがわれ、パンジャーブのラホールからアワドのファテーガルに移動させられた。またこのとき、インド総督ダルフージーによって、彼とその一族の土地は取り上げられ、父ランジート・シングが手に入れたコーヒ・ヌールのダイヤモンドもに同様に取り上げられた。
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