シカネーダーとベートーヴェンの共作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:06 UTC 版)
「ヴェスタの火」の記事における「シカネーダーとベートーヴェンの共作」の解説
ベートーヴェンは1792年のウィーンへの到着後、1791年に他界したモーツァルトの足跡をなぞるような時を過ごしていたが、シカネーダーとの共同制作はそうした一連の出来事の最後期のものである。 アウフ・デア・ヴィーデン劇場で過ごす年月の中で、シカネーダーは仕事場に居を構えるのが効果的であると気づいていた。すなわち劇場を内部に備えた同じ居住施設に暮らすという意味であり、彼と共に働く者も多くが劇場内で暮らしていた。シカネーダーは新しいアン・デア・ウィーン劇場でもこの習慣を確実に継続できるよう取り計らっており、彼も劇場会社の多数の従業員も4階建ての共同住宅に住んだ。 1803年のはじめ、シカネーダーは次なるベートーヴェンとの合作を企画した。自分の劇場のためにオペラを書いてくれないかと持ち掛けた彼は、奨励策の一環として上述の居住施設への無償入居を申し出たのである。ベートーヴェンはこれに同意して同住宅へ引っ越し、概ね1803年4月から1804年5月の間をそこで暮らした。ただし、習慣にしていた夏季の近隣郊外、バーデン・バイ・ウィーンとオーバーデープリング(英語版)への外出期間は除く。当時自らの事業を運営していた弟のカスパールも、この劇場併設の住居に越してきている。ベートーヴェンは4月に劇場で自作を披露する演奏会を計画しており、同劇場はそれ以降も彼のお気に入りの演奏会場であり続けることになる。 シカネーダーがベートーヴェンに渡すリブレットは10月後半になるまで出来上がらなかったため、当初ベートーヴェンには共同制作に係る義務は何も課されていなかった。彼はとにかく他の作品を作曲するので大忙しであった。ベートーヴェンが『ヴェスタの火』に着手したのは11月の終わりごろであり、1か月間は辛抱してこれに取り組んだ。
※この「シカネーダーとベートーヴェンの共作」の解説は、「ヴェスタの火」の解説の一部です。
「シカネーダーとベートーヴェンの共作」を含む「ヴェスタの火」の記事については、「ヴェスタの火」の概要を参照ください。
- シカネーダーとベートーヴェンの共作のページへのリンク