シェリダンの襲撃の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 02:45 UTC 版)
「トレビリアン・ステーションの戦い」の記事における「シェリダンの襲撃の始まり」の解説
シェリダンとその2個騎兵師団は6月7日午前5時に、コールドハーバーの宿営地を出発した。パムンキー川をニューカッスルで渡す舟橋で渡河して北西に向かい、グレッグの師団を前衛に、トーバートの師団をその後衛に配していた。天候は暑く、行軍に伴って埃の大きな雲が付きまとっていた。その初日はわずか15マイル (24 km) 進むことができただけだった。疲労下で多くの馬が倒れており、5月にイェロータバンの戦いやリッチモンドを襲撃したときのやり方にならい、倒れた馬を銃殺して道端に放置していった。シェリダンの部隊の後には125両の荷車が付いていたが、3日分の食料しか持たされてはおらず、途中で兵士と馬に糧食を見つけられると期待されており、下馬した徴発隊が道沿いに広がっていた。2日目、トーバートの師団を前衛にかなりの距離を進行し、リッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道のポールキャット駅まで25マイル (40 km) を進んだ。北軍はバージニアの夏の暑さと湿度に悩まされただけでなく、不規則に現れる騎馬襲撃部隊との小競り合いによって進行を遅らされた。 南軍の斥候が6月8日朝に、シェリダン軍の動きをハンプトンに伝える伝言を渡した。ハンプトンは、北軍の目標がゴードンズビルやシャーロッツビルでの鉄道接続点であると正しく推測し、その動きを止めるために素早く行動しなければならないと分かった。配下の師団には、6月9日午前2時の集合を命じ、フィッツヒュー・リーにはできるだけ速やかに後に続くよう指示した。北軍は2日分先行していたが、南軍は近道できる(約45マイル、72km 対 65マイル、104km)という利点があり、途中の地形も知悉していた。6月9日、この日は1863年のブランディ・ステーションの戦いからまる1年が経った日であり、イェロータバーンを抜け、テレグラフ道路を上り、その後はバージニア・セントラル鉄道に沿ってバンパスとフレデリックスホール駅まで、緩り慎重なペースで進んだ。 6月10日夜までに、両軍はトレビリアン・ステーションの周りに集まっていた。この名前はその駅に近いプランテーション農家を所有するチャールズ・グッドール・トレビリアンから名付けられていた。南軍はゴードンズビル道路沿い、バージニア・セントラル鉄道の直ぐ南の4か所で宿営した。トレビリアン・ステーションのすぐ西から東のルイーザ郡庁舎に広がった。北軍はカーペンターズ浅瀬でノースアンナ川を渡り、クレイトンズストア周辺で宿営した。
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